<「金 範松」論文の要点>
『心・意・識説に関する研究』 ― 阿頼耶識と末那識との関係を中心― 金 範松
https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=1
難陀等:まず、前五識は、第六識をもってその所依とする。なぜなら、五識が現起する時には、必ず意識が俱に起きるので眼等の根をその所依とすべきではない。五根は五識の種子であると主張する。次に、第六識は、第七識をもってその所依とする。なぜなら、この識は必ず末那に託して起こるからである。そして、第七識と第八識とは、別に所依はない。なぜなら、第七・第八はいずれも恒に相続して転じており、自力が勝れているからであるという。
前五識→第六識 五識→五根 第六識→第七識 第七識と第八識とに所依はない。
安慧等:難陀等の説を全面否定して論破する。難陀は五根を五識の種子だというが、その時、起きる過失について十難を立てて論破する。そして、前五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依がある。それは五色根(五根)と五識と同時の第六識(五俱意識)だという。第六意識は、必ず恒に一つの俱有依がある。つまり、七識である。五識と共に起こる時は、さらに五識をも俱有依とする。第七識は、必ずただ一つの俱有依がある。つまり、第八識である。ただ第八識は、恒に転変する ことがなく、自らよく立つので俱有依は無いという。
五識→五根× 十難を立てて論破する。 安慧は、五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依があると主張。 五識→五根と「五識と同時の第六識」の二つの俱有依がある。
第六意識→七識 五識と共に起こる時は、五識をも俱有依とする。 第六意識→七識・五識
七識→八識 八識は、恒に転変することがなく、俱有依は無い。
浄月等:前の安慧の説に対して、七識については同じであるが、第八識に俱有依がないことについては、未だ理を尽くしていないと批判する。即ち第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張する。さらに、現行識にその依がある限り、種子識にもまた、現行識に依るべきだと主張する。従って第八識の現行識においては、決定して第七識をもってその所依とする。第七・第八二識は、俱に間断なく恒に相続するので互に俱有依とする。もし、有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。また、種子識においては、決定して第八現行は依る。これ第八現行は種子の住依 となるのでという。
第八識に俱有依がないことについては、 未だ理を尽くしていないと批判する。 第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張。
しかがって第八識の現行識においては、 決定して第七識をもってその所依とする。
第八識→第七識
第七・第八の二識は、俱に間断なく 恒に相続するので互に俱有依とする。
第七⇄第八
有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。
護法の批判:護法は、前三師の説は皆理に応じないと論破する。なぜなら、そもそも依存関係にある法には「依」と「所依」との区別があると主張する。「依」とは、広く因縁・等無間縁等の四縁に通じ、すべての有為法において因に頼り、縁に託して生じ住する法を皆「依」と名づける。それは、例えば、王と臣が互いに相依る如くのものである。しかし、これを「所依」と名づけるべきではない。俱有の所依と名づけるべきものは、必ず決定・有境・為主および取自所縁の四義を俱にしなければならない。これらの条件を備えているのは内の六処(六根と六境)である。然るに前三師は、何れもこれを弁別しないので間違いであるという。
第六意識は第七末那識を依とするが第七意識は第六末那識を依とはしない(不共依)
第六意識→第七末那識(不共依の直接関係)
施本 「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」 http://oujyouin.com/buddhism5p.html
業種子は、前五識・第六識・第七識・第八識の全てに影響を与える基となっている種子のことで、原因が善・悪であっても、阿頼耶識の中でたくわえられます。また、阿頼耶識においては、異なって熟されていくため、このことを「異熟習気《じっけ》」と表されます。
また、種子には六つの条件があって、このことを「種子の六義」と言います。
種子の六義
刹那滅《せつなめつ》(刹那に生滅変化すること)・果倶有《かくう》(結果と同一に存在すること)・恒随転《ごうずいてん》(生滅が常に続くが性質はずっと保持していること)・性決定《しょうけつじょう》(善・悪・無記の因果性が決まること)・待衆縁《たいしゅうえん》(因縁によって現行すること)・引自乗《いんじか》(因果は同一の性質で引き継がれること)
では、具体的に「識」によって作り出される、この世の現象世界の事物についての一連の働き、変化については、第一能変・第二能変・第三能変で示されます。
第一能変・・種子をたくわえる阿頼耶識において、あらゆる業(心《しん》・口《く》・意《い》の三業)の結果が、種子の様々な因縁によって、その結果が異なった形で熟し、新たな認識として生起して現行していくこと。このことを異熟《いじゅく》と言います。例えば、悪業を積み重ねて、その種子を阿頼耶識にたくわえても、その後に善業を重ねて、その善業の種子が阿頼耶識にたくわえられていけば、その因縁によっては、悪業による種子を浄化させて、先の悪業の結果も変わって熟していき、新たな認識の生起、現行をもたらすということです。この第一能変は、仏教における悪をなさず善を行ないなさいという善行奨励の理由として、輪廻についての説明でも理論的に補完されているところであると考えられます。また、先にも述べてありますように、阿頼耶識そのものは、善でも悪でもない「無記《むき》」なるものであります。
第二能変・・未那識における考え・思考のこと。思量《しりょう》とも言われる。この思量では、無意識においても常に自我意識をもたらし、自己執着(我執)して、特に四つの我についての根本煩悩にさいなまれている認識のこと。我見(自己は固定した実体としての存在があるとして、固執していること)、我痴(諸行無常・諸法無我などの仏法の真理を知らない愚かなこと)、我慢(自己について慢心していること)、我愛(自己に愛着していること)。もちろん、未那識は阿頼耶識によって強く影響を受けています。
第三能変・・前五識・第六意識における認識作用。了別《りょうべつ》と言う。眼・耳・鼻・舌・身・意によって、それぞれ対象である色・声・香・味・触・法を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。ただし、意識は、前五識とはやや異なり、前五識の情報を受けて、すべての事物(現在・過去・未来を含めて)について認識・判断するものとして区別されています。もちろん、阿頼耶識は、前五識・第六意識に大きく影響しています。
能蔵・所蔵・執蔵の三義について https://talk.jp/boards/psy/1692236321 レス241-281
阿頼耶識 と依他性 との関係 について https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja
『唯識三十頽』第5偶 「この(阿頼耶識の)転捨は阿羅漢の位においてである。(tasya vyrttir arhatve)」3) >> 5の204レス
唯識三十頌/訓読 https://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html
(5) 次のは第二能変なり 是の識を末那(末那識)と名づく 彼(阿頼耶識)に依りて転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す
唯識三十頌 作者:世親 訳者:玄奘 https://ja.wikisource.org/wiki/唯識三十頌
仏教認識論 https://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef
『倶舎論』 客体(見られる側)=モノのあり様 『唯識論』 主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
唯識はこの主体である見る人の心のあり様を説いた教えです。
【大乗仏教】唯識派 唯識二派 https://note.com/hiruandondesu/n/n1172680a7a41
六世紀の初頭にナーランダー出身の徳慧(グナマティ)は西インドのカーティアワール半島にあるヴァラビーに移り、彼の弟子である安慧(スティラマティ)に至って、この地の仏教学は最盛期を迎えたと言われます。同じ頃、ナーランダーにおいては護法(ダルマパーラ)が活動していましたが、安慧(スティラマティ)と護法(ダルマパーラ)の間には唯識説の解釈に相違がありました。
前者は阿頼耶識が最終的には否定されることで、最高の実在(光り輝く心)が個体において現成し、主観と客観とが分かれない境地へ至れるとします。
後者は阿頼耶識を実在とみなし、それが変化して主観と客観とが生じるという説をたてます。覚りを得ても阿頼耶識そのものが否定されるのではなく、その中にある煩悩の潜在力が根絶されるのみです。阿頼耶識(の種子)が変化したものとしての主観と客観は最終的にも存在することになります。
『成唯識論』の縁起思想 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
唯識では阿頼耶識縁起、華厳では法界縁起などが説かれていくことになる。
阿頼耶識縁起(転識) 法界縁起(因果俱時の縁起)
四分 https://www.yuishiki.org/四分の教え/
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体) 2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観) 3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我) 4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
●自証分 上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。 ●証自証分 上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。
<「金 範松」論文の要点>
『心・意・識説に関する研究』
― 阿頼耶識と末那識との関係を中心― 金 範松
https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=1
難陀等:まず、前五識は、第六識をもってその所依とする。なぜなら、五識が現起する時には、必ず意識が俱に起きるので眼等の根をその所依とすべきではない。五根は五識の種子であると主張する。次に、第六識は、第七識をもってその所依とする。なぜなら、この識は必ず末那に託して起こるからである。そして、第七識と第八識とは、別に所依はない。なぜなら、第七・第八はいずれも恒に相続して転じており、自力が勝れているからであるという。
前五識→第六識
五識→五根
第六識→第七識
第七識と第八識とに所依はない。
安慧等:難陀等の説を全面否定して論破する。難陀は五根を五識の種子だというが、その時、起きる過失について十難を立てて論破する。そして、前五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依がある。それは五色根(五根)と五識と同時の第六識(五俱意識)だという。第六意識は、必ず恒に一つの俱有依がある。つまり、七識である。五識と共に起こる時は、さらに五識をも俱有依とする。第七識は、必ずただ一つの俱有依がある。つまり、第八識である。ただ第八識は、恒に転変する
ことがなく、自らよく立つので俱有依は無いという。
五識→五根× 十難を立てて論破する。
安慧は、五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依があると主張。
五識→五根と「五識と同時の第六識」の二つの俱有依がある。
第六意識→七識
五識と共に起こる時は、五識をも俱有依とする。
第六意識→七識・五識
七識→八識
八識は、恒に転変することがなく、俱有依は無い。
浄月等:前の安慧の説に対して、七識については同じであるが、第八識に俱有依がないことについては、未だ理を尽くしていないと批判する。即ち第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張する。さらに、現行識にその依がある限り、種子識にもまた、現行識に依るべきだと主張する。従って第八識の現行識においては、決定して第七識をもってその所依とする。第七・第八二識は、俱に間断なく恒に相続するので互に俱有依とする。もし、有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。また、種子識においては、決定して第八現行は依る。これ第八現行は種子の住依
となるのでという。
第八識に俱有依がないことについては、
未だ理を尽くしていないと批判する。
第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張。
しかがって第八識の現行識においては、
決定して第七識をもってその所依とする。
第八識→第七識
第七・第八の二識は、俱に間断なく
恒に相続するので互に俱有依とする。
第七⇄第八
有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。
護法の批判:護法は、前三師の説は皆理に応じないと論破する。なぜなら、そもそも依存関係にある法には「依」と「所依」との区別があると主張する。「依」とは、広く因縁・等無間縁等の四縁に通じ、すべての有為法において因に頼り、縁に託して生じ住する法を皆「依」と名づける。それは、例えば、王と臣が互いに相依る如くのものである。しかし、これを「所依」と名づけるべきではない。俱有の所依と名づけるべきものは、必ず決定・有境・為主および取自所縁の四義を俱にしなければならない。これらの条件を備えているのは内の六処(六根と六境)である。然るに前三師は、何れもこれを弁別しないので間違いであるという。
第六意識は第七末那識を依とするが第七意識は第六末那識を依とはしない(不共依)
第六意識→第七末那識(不共依の直接関係)
施本 「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism5p.html
業種子は、前五識・第六識・第七識・第八識の全てに影響を与える基となっている種子のことで、原因が善・悪であっても、阿頼耶識の中でたくわえられます。また、阿頼耶識においては、異なって熟されていくため、このことを「異熟習気《じっけ》」と表されます。
また、種子には六つの条件があって、このことを「種子の六義」と言います。
種子の六義
刹那滅《せつなめつ》(刹那に生滅変化すること)・果倶有《かくう》(結果と同一に存在すること)・恒随転《ごうずいてん》(生滅が常に続くが性質はずっと保持していること)・性決定《しょうけつじょう》(善・悪・無記の因果性が決まること)・待衆縁《たいしゅうえん》(因縁によって現行すること)・引自乗《いんじか》(因果は同一の性質で引き継がれること)
では、具体的に「識」によって作り出される、この世の現象世界の事物についての一連の働き、変化については、第一能変・第二能変・第三能変で示されます。
第一能変・・種子をたくわえる阿頼耶識において、あらゆる業(心《しん》・口《く》・意《い》の三業)の結果が、種子の様々な因縁によって、その結果が異なった形で熟し、新たな認識として生起して現行していくこと。このことを異熟《いじゅく》と言います。例えば、悪業を積み重ねて、その種子を阿頼耶識にたくわえても、その後に善業を重ねて、その善業の種子が阿頼耶識にたくわえられていけば、その因縁によっては、悪業による種子を浄化させて、先の悪業の結果も変わって熟していき、新たな認識の生起、現行をもたらすということです。この第一能変は、仏教における悪をなさず善を行ないなさいという善行奨励の理由として、輪廻についての説明でも理論的に補完されているところであると考えられます。また、先にも述べてありますように、阿頼耶識そのものは、善でも悪でもない「無記《むき》」なるものであります。
第二能変・・未那識における考え・思考のこと。思量《しりょう》とも言われる。この思量では、無意識においても常に自我意識をもたらし、自己執着(我執)して、特に四つの我についての根本煩悩にさいなまれている認識のこと。我見(自己は固定した実体としての存在があるとして、固執していること)、我痴(諸行無常・諸法無我などの仏法の真理を知らない愚かなこと)、我慢(自己について慢心していること)、我愛(自己に愛着していること)。もちろん、未那識は阿頼耶識によって強く影響を受けています。
第三能変・・前五識・第六意識における認識作用。了別《りょうべつ》と言う。眼・耳・鼻・舌・身・意によって、それぞれ対象である色・声・香・味・触・法を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。ただし、意識は、前五識とはやや異なり、前五識の情報を受けて、すべての事物(現在・過去・未来を含めて)について認識・判断するものとして区別されています。もちろん、阿頼耶識は、前五識・第六意識に大きく影響しています。
能蔵・所蔵・執蔵の三義について
https://talk.jp/boards/psy/1692236321
レス241-281
阿頼耶識 と依他性 との関係 について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja
『唯識三十頽』第5偶
「この(阿頼耶識の)転捨は阿羅漢の位においてである。(tasya vyrttir arhatve)」3)
>> 5の204レス
唯識三十頌/訓読
https://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html
(5)
次のは第二能変なり 是の識を末那(末那識)と名づく
彼(阿頼耶識)に依りて転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す
唯識三十頌 作者:世親 訳者:玄奘
https://ja.wikisource.org/wiki/唯識三十頌
仏教認識論
https://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef
『倶舎論』 客体(見られる側)=モノのあり様
『唯識論』 主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
唯識はこの主体である見る人の心のあり様を説いた教えです。
【大乗仏教】唯識派 唯識二派
https://note.com/hiruandondesu/n/n1172680a7a41
六世紀の初頭にナーランダー出身の徳慧(グナマティ)は西インドのカーティアワール半島にあるヴァラビーに移り、彼の弟子である安慧(スティラマティ)に至って、この地の仏教学は最盛期を迎えたと言われます。同じ頃、ナーランダーにおいては護法(ダルマパーラ)が活動していましたが、安慧(スティラマティ)と護法(ダルマパーラ)の間には唯識説の解釈に相違がありました。
前者は阿頼耶識が最終的には否定されることで、最高の実在(光り輝く心)が個体において現成し、主観と客観とが分かれない境地へ至れるとします。
後者は阿頼耶識を実在とみなし、それが変化して主観と客観とが生じるという説をたてます。覚りを得ても阿頼耶識そのものが否定されるのではなく、その中にある煩悩の潜在力が根絶されるのみです。阿頼耶識(の種子)が変化したものとしての主観と客観は最終的にも存在することになります。
『成唯識論』の縁起思想
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
唯識では阿頼耶識縁起、華厳では法界縁起などが説かれていくことになる。
阿頼耶識縁起(転識)
法界縁起(因果俱時の縁起)
四分
https://www.yuishiki.org/四分の教え/
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
●自証分
上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。
●証自証分
上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。