仏教のお話

Rの会:譬諭品第三 / 1

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ダルマ太郎 2024/05/08 (水) 18:35:29 修正

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身子(舎利弗)の自陳
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経:その時に舎利弗、踊躍(ゆやく)歓喜して即ち起って合掌し、尊顔を瞻仰(せんごう)して仏に白して言さく。今、世尊に従いたてまつりてこの法音を聞いて、心に踊躍を懐き未曾有なることを得たり。所以は何ん。我昔仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども、しかも我等はこの事に預らず。甚だ自ら如来の無量の知見を失えることを感傷しき。世尊。我常に独、山林樹下に処して、もしは坐し、もしは行じて、毎にこの念を作しき。我等も同じく法性に入れり、云何ぞ如来小乗の法を以て済度せられと。これ我等が咎なり、世尊には非ず。所以は何ん、もし我等、所因の阿耨多羅三藐三菩提を成就することを説きたもうを待たば、必ず大乗を以て度脱せらるることを得ん。しかるに我等、方便随宜の所説を解らずして、初め仏法を聞いて(たまたま)便ち信受し、思惟(しゆい)して証を取れり。世尊。我昔より来、終日竟夜(ひねもすよもすがら)毎に自ら剋責(こんしゃく)しき。しかるに今、仏に従いたてまつりて、未だ聞かざる所の未曾有の法を聞いて諸の疑悔を断じ、身意泰然として快く安穏なることを得たり。今日乃ち知んぬ。真に是れ仏子なり。仏口より生じ法化より生じて、仏法の分を得たり。
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R訳:舎利弗は、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)(踊り出したいほど喜ぶ)して立ち上がり、仏さまを仰ぎ見て申し上げました。世尊から『誰でも仏に成ることができる。そのことに疑念を持ってはならない』という強いお言葉を賜り、踊り出したくなるほどの大感激を覚えています。心は大歓喜に満ち、胸にからまっていた疑いの網はすっかりなくなりました。これまで私は世尊にお仕えし、『誰でも修行を積めば仏に成れる』とのお言葉は伺ってはいました。そして、多くの菩薩たちに授記(仏になれるという保証を与える)される場面を目の当たりにしました。しかし、このことは、私ども声聞や縁覚には無縁の、遠く及ばないことだと思っていました。私どものような声聞や縁覚の境地の者は、所詮、どんなに修行をしても絶対に悟りを得ること(仏に成ること)など無理なことだと諦めており、淋しく、悲しく思っていました。世尊よ。私はただ一人、林の中で木の下で座して瞑想し、歩きながら思索を深める時、いつも次のようなことを思い、嘆き、自分を責めていました。『自分たちは菩薩と同じように世尊のみ教えを伺うご縁を頂き、同じく(けが)れのない清浄な境地に至っているのに、なぜ世尊は我々には《大乗の教え》を説かず、《小乗の教え》だけを説かれるのだろうか』と世尊を責める気持ちがありました。しかし、こう思うのは、私たちが至らぬせいであり、少しも世尊の責任ではありません。すべては私たちの(とが)めとするところであります。

なぜならば、そもそも世尊は『仏に成れる大本(因)となる教え』をお説き下さっておられ、私たちは、何の心配も無くお待ちしていれば、いずれは《大乗の教え》をくださり、『誰でもが仏に成れる』教えである『法華経』を必ずお説き下さるはずであったからです。

それなのに私は、世尊からいただく《方便の教え》の真意を理解できず、教えの上辺だけを聞いて、すでに悟りを得ていたと勝手に思い込んでいました。ですから他の多くの菩薩たちだけが成仏の保証を頂くのを見て、『自分は授記を頂けない。自分は至らないダメな人間だ』と嘆き、そして『菩薩が得る素晴らしい境地などに、自分には到底、成就できるはずはない。今、自分が悟りを得ていたと思っていたことは、全くの思い過ごしで、自分で自分を騙していたのだ』と昼夜、自分を責めていました。

しかし、只今『方便品』にて、仏さまから未だかつて伺ったことの無い尊い教えを頂いて、すべての疑いも悔しい気持ちも、すっかりなくなってしまいました。今は心も体も安らかで、安穏な心持ちでございます。世尊は人と時と場合に応じてふさわしい教えを説かれ、すべての衆生を仏の境地にお導きされます。そのことが今こそハッキリと分かりました。
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太郎訳:その時に尊者シャーリプトラは、歓喜し躍るように立ち上がって合掌し、釈尊のお顔を仰ぎながら申し上げました。今、世尊の教えを聴かせて頂き、心に大きな喜びを懐いています。このような感動はめったにありません。なぜならば、私は昔、仏に従って、成仏の教えを聞き、諸々の菩薩たちが成仏の予言を受けるのを見ましたが、私たち声聞には、成仏の予言はありませんでした。私たちは、如来の無量の智慧を得ることはないのだと失望し、心を痛めていました。世尊。私は常に独りで、山林の樹の下で過ごし、坐ったり、または歩きながら、いつもこのようなことを考えていました。私たちも菩薩たちと同じように、真実を覚っています。しかし、なぜ如来は、私たちには小乗の教えばかりを説かれ、小乗の教えで救おうとされるのでしょう? このことは、私たちに問題がありました。世尊の責任ではありません。

なぜなら、もし私たちが、完全なる成仏の教えを説かれることをお待ちしていれば、必ずや、世尊は、大乗の道をお教え下さるのです。しかし、私たち声聞は、方便の教えの真意が分からなかったため、釈尊から頂いた最初の教えを信じ、その教えを深く思惟することによって、涅槃を得ることができたと思っていました。修行の目的を達成したと思っていたのです。しかし、菩薩たちとは、修行の目的が違うことに疑問を持っていました。菩薩たちの目的が成仏なのに、なぜ声聞の目的が解脱なのかと考えていました。

世尊。私は、昔からずっと、昼も夜もこのことを考え、自分たち声聞が菩薩たちよりも劣る存在なのかと自分を責め続けていました。しかし、今、仏に従って、これまでに聞いたことのない稀なる教えを聴いて、様々な疑いと悔やむ想いを断じ、身も心も落ちつき、心地よい安穏の境地になることが出来ました。今日、私は分かりました。私たちは、まことに仏の子なのです。仏さまの口から生まれ出て、仏さまの説法によって生まれ変わり、仏法を分けて頂いています。
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身子(舎利弗)の自陳
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