Sさん
質問者2024/4/25 21:16
>ノンフィクションではないのです。
いえ、ブッダの言行の記録であるというのが、経典の前提です。如是我聞に始まり、経典の内容がどこで誰を相手に説かれたものか明らかにするという形式が、ほぼ全ての経典で徹底されているのはそういうことです。それを信じないというのは勝手ですが、そうした形式が徹底されていることからノンフィクションを標榜されたものであるということは明らかですし、大乗経典がこの形式を踏襲したのも創作ではなくノンフィクションだと信じさせたかったからです。
そして、それが信じられないなら、ブッダの存在やブッダの悟りやブッダの教えも信じる根拠がなくなりますから、帰依も生じないでしょう。
ダルマ太郎さんは「初期経典を読む暇は無い」と放言していましたが、ブッダの教説そのものが含まれる可能性が最も高いものがあるのに、その程度の興味しか示さないというのはそういうことなんでしょう。
>なぜなら、釈尊は教えの文字化をしていないからです。
文字で書かれた大乗経典の方にこそ真贋を巡って多くの議論があります。書かれていれば信頼性が高いなどということは言えない証拠です。そもそも、そういうのは仏教学者の弁であって仏教徒のものではありません。教えを聞いて、経典を読んで浄信が生じれば、それを縁として帰依を誓うのが仏教徒でしょう? それ以外にどうやって仏教徒になるのでしょう?
>最終的に覚るのは、学ぶ側自身の智慧によります。
龍樹は大智度論でこう言っています。
若人心中有信清淨。是人能入佛法。
若無信是人不能入佛法。
不信者言是事不如是。是不信相。
(訳)
「もし人の心に清浄なる信があれば、その人は仏法に入ることが出来る。
もし信が無ければその人は仏法に入ることができない。
信のないものはこれを否定するが、それこそが不信の特徴である。」