仏教のお話

問答 輪廻について / 40

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ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:25:43

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:02

> 私が「認識論」と読んでいるのは、言語的・概念的に把握されることに拘る哲学的立場のことです。

私は、認識論者だとは思っていません。それは、Sさんの感想です。

> 対して、仏教における識というのは言語的認識だけを指すのではありません。初期仏教で説かれた六識も、唯識が説いた八識も、言語的に概念として認識すること以外にも識という働きが作用していることを説いています。

もちろん、言語的認識だけではありません。言語・概念・イメージなどを認識しています。般若経では、言語に依る認識を重視していますから、私もそうしています。疑問があるのなら、摩訶般若波羅蜜経をお読みください。

Sさんは、外の世界を認識していると考えているのですか?

> リンゴという言葉・概念がなくても、私たちはそれを見ること(眼識)、その匂いを嗅ぐこと(鼻識)、それを口で味わうこと(舌識)、手でそれを触ること(身識)でも識別しています。

私たちが、知らないものを見たら、それを景色の一部だと認識します。知っていたら、そのものの名称や概念を想起します。それを見てリンゴだと思うのは概念に依ります。耳・鼻・舌・身も同じです。

> 自分の感情や欲望を認識するときも、それを逐一言語化して、概念化してから識別しているわけではありません。意識にそれらが接触すれば一刹那のうちにそれを識別するのです。

感情や欲望も、概念化し、言語化するまでは、正体不明でしょう? 憂悲苦悩は、それを憂悲苦悩だと言葉で知っているから認識できます。

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