仏教のお話

問答 輪廻について / 37

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ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:19:34

Sさん

質問者2024/4/25 7:33

私が「認識論」と読んでいるのは、言語的・概念的に把握されることに拘る哲学的立場のことです。対して、仏教における識というのは言語的認識だけを指すのではありません。初期仏教で説かれた六識も、唯識が説いた八識も、言語的に概念として認識すること以外にも識という働きが作用していることを説いています。リンゴという言葉・概念がなくても、私たちはそれを見ること(眼識)、その匂いを嗅ぐこと(鼻識)、それを口で味わうこと(舌識)、手でそれを触ること(身識)でも識別しています。自分の感情や欲望を認識するときも、それを逐一言語化して、概念化してから識別しているわけではありません。意識にそれらが接触すれば一刹那のうちにそれを識別するのです。言語的認識というのはわたしたちの心的作用のごく一部に過ぎません。

ウイルスに体が反応するのも身識によって識別しているということですから、ウイルスという概念を知らなくても、ウイルスに冒された人にとってそれは存在しているのです。ダルマ太郎さんはあくまで言葉と概念というものにこだわり、そこから全てを説明しようとしているように見えます。大乗の一部にそうした傾向があることは否定しませんが、それが大乗仏教だというのは偏った見方だと思いますよ。

>Sさんは、実在論者ですか?

外の世界のことを仏教では「境」(visaya)と呼んでいます。「認識しなければ、私の世界には存在しない」と言いますが、そもそも認識は対象がなければ成立しませんよね? もちろんリンゴは実体として有るわけではありません。縁起生のものとして生滅していますが、そうした形で私たちの外に認識に関わらず世界が存在しているという事実も、私たちの世界に含まれているというのが私の立場です。

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