………。」
今度こそ押そう。……いや、やっぱりもう一度深呼吸。今度こそは。……一旦、瞑想して精神統一を………。
求人の掲載主と電話を終えてから10分。家に荷物を置いて、記載の住所へと到着するまで10分。更にドアの前に立ち尽くして20分。かれこれ40分以上はこの家の主を待たせていることになる。
それにしても緊張する。さっきから一体何度指を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返しているか。辺りを散歩していた親子が往復していったくらいだ(ちなみに私を指差す子供を母親が窘めていた)。
電話に出たのは20代くらいの若い男性のようだった。男性は初め、緊張で上手く話せない私を悪戯と勘違いして切られそうになったが、なんとか言葉を振り絞って求人に応募したい旨を伝えた。
『…ああ!求人。見てくれたんですね。ありがとうございます。それならそうと早く言ってくれればいいのに。お住まいは杜王町で?今から来られます?……よかった。では後ほどお待ちしています』
誤解が解けて優しそうな声色に変わった男性の声を思い出す。そして到着したこの家の表札にもきちんと『岸辺』と書かれていた。ともすればやっぱりこの求人は露伴先生が掲載したものだろう。
そう考えると緊張がピークに達してやはりこれ以上動けない。何たって彼は私の中のヒーローでありカミサマなのだ。しかしだからこそ一目会いたい。
そう思い幾度となく伸ばした指先を、再びインターホンへと差し出したーーその時。
「………いらっゃい………」
「………え、ッッッッヒッッッ!?!?!?」
ムギッ、と効果音がつきそうなほどむんずと掴まれた腕。それは暗闇の先のドアの隙間から伸びていて、私は突然のことに声にならない叫び声を上げる。何だ!?心霊現象!?!?それとも、露伴先生ってかなりヤバイ人………!?!?!?
思わず後退りするも、掴まれた手は離れない。まるで逃す気はないとでも言うように。
そして美しい装飾の施されたドアが、ゆっくりと低い音を立てて開いてゆく。その奥から出てきたのは、やはり、岸辺露伴その人だった。
「…………あ………露伴、先生………」
「……ああ、新年特大号見た?」
憧れて尊敬してやまない本物の露伴先生を前にして目眩でも起きそうな気分だ。私が呟くように彼の名前を呼ぶと、露伴先生は納得したようにそう訊ねた。その問いかけを皮切りに私の中の抑えていたピンクダークの少年(略してPD)愛が溢れ出す。
「は……ハイッッッッ!!!!もちろん見ました!!!先生のデビューからの大ファンです!!!単行本全巻揃えてます!!週刊誌も欠かさず買ってクラッチブックにしてます!!!…………お会いできて、光栄ですッッッッ!!!!」
思わず勢いで気持ちの一部(ほんとはもっと言いたいこともある)を伝えて頭を下げて、手を差し出す。まるでプロポーズの返事を待つ人みたいだ。
そんな満身創痍の私に、露伴先生の淡々とした声が降ってくる。
「……そうか、僕のファンか。そいつはいい。すごくいい。きっと波長も合う。」
波長が合う、露伴先生はそう呟いた。その意味がわからなくて頭に疑問符を浮かべていると、不意に差し出した右手を握られる感触がした。私より少し大きくて、骨張っている絵を描く人の手。驚いてバッ!と顔を上げると優しい笑顔を浮かべた露伴先生が私の手を握り返してくれていた。
「露伴先生………!!!!」
「いつも応援してくれてありがとう。今回君が来てくれたのはアルバイトのためとはわかってるけど……僕としてもこんな熱心なファンがいてくれて嬉しいんだ。君さえ良ければ、僕の仕事場を見学して行かないかい?」
「………え………?」
「バイトは、その後でもいいだろう。どうかな?」
目の前に、カミサマがいる。それもものすごく慈悲深い。
私はまるで露伴先生から御光がさすような幻覚を見た。16歳でデビューした天才漫画家で、その人気は今まで衰えることもなく、若干20歳にしてこんな立派な家に住み、常に素晴らしい作品を読者に届け、あまつさえその人柄も気さくで優しい。こんな完ぺきな人が存在していいのだろうか……!!!
「い!!!いき!!!ます!!!」
「それはよかった。では早速どうぞ。さあ、遠慮せずに。」
私は夢のような出来事が連続して起き、頭はパニックなのに心は浮き足立っていて、何も考えることなく二つ返事で露伴先生の家へ招かれた。
先生が丁寧にドアを開けて押さえていてくれる。優しい笑顔とともに。そして高鳴る鼓動と共に私はついに岸辺露伴邸へと足を踏み入れたのだった。
「………ようこそ、我が家へ。」
背後で重い扉がバタンと閉まる音がした。
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