仏教のお話

問答 輪廻について

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問)
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Sさん
2024/4/20 11:26
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時折、「初期仏教では輪廻が説かれたが、大乗仏教では輪廻は説かれていない」といった言説を眼にしますが、大乗の代表的論師である龍樹も無著も理論的に輪廻を説いていると思います。皆様のご意見をいただければと思います。
:
:
復次是般若波羅蜜中種種因緣譬喻多說空法。有新發意者。
取空相著是空法。於生死業因緣中生疑。若一切法畢竟空。
無來無去無出無入相。云何死而有生。現在眼見法尚不應有。
何況死後餘處生。不可見而有。如是等種種邪疑顛倒心為斷。
是故佛種種因緣廣說有死有生。

(中略)
如人死生。雖無來去者而煩惱不盡故。於身情意相續更生身情意。
身情意造業亦不至後世。而從是因緣更生受後世果報。
譬如乳中著毒。乳變為酪。酪變為酥。乳非酪酥。酪酥非乳。
乳酪雖變而皆有毒。此身亦如是。今世五眾因緣故更生後世。
五眾行業相續不異故而受果報。又如冬木。雖未有花葉果實。
得時節會則次等而出。如是因緣故知有死生。」

:
龍樹『大智度論釋往生品第四之上 卷三十八』
:
(訳)
「また次に、この般若波羅蜜経においては様々な因縁や多くの譬喩によって空法を説いているのだが、新たに発心して仏道に入った者は、空という存在の見方、空という教えに執着し、生死(輪廻)の業の因縁に関して疑いを持つようになるようだ。
『もし一切のものが究極的に空であり、来るのでなく、去るのでなく、出るのでなく、入るのでもないという有り方をしているならば、一体何が死んで生まれるのか。今、眼で見えるものでさえ、実体的に有るものではない。いわんや死後の他世は見ることもできないのに、有るということがあろうか』と。
こうした様々な誤った疑い、真理に反する心を断つために、仏は様々な因縁によって、広く、死が有り、生が有るということを説かれた。

(中略)
このように人の死や生は、来去する主体は無いといえども、煩悩が尽きないがゆえに、身体、心において相続し、さらに身体と心を生じさせる。身体と心を作る業そのものは後世に続なくても、その因縁は存続して後世において果報(業の結果)を受ける。
:
例えば乳に毒(※酵母?)を入れれば、乳は酪(バター)になり、酪は酥(チーズ)となるが、乳は酪でも酥でもないし、酪、酥は乳でもない。乳と酪は別物だが、いずれも同じ毒が入っている。
この身も同様で、今世の五蘊によって作られた因縁によって、後世に(心身が)生じるが、五蘊の業が相続されているので全くの別物ではない。そのため業の果報を受けることになる。
ちょうど、冬の木は、未だ花も葉も果実もつけていないが、時が来ればそれらは次第に実ってくるようなものである。
このような因縁のゆえに、死と生が有るということが知られる。」

:
:
云何此識或説爲阿陀那識。能執持一切有色諸根。
一切受生取依止故。何以故。
有色諸根此識所執持不壞不失。及至相續後際。
又正受生時由能生取陰故。故六道身皆如是取。
是取事用識所執持故。説名阿陀那。

:
無著『摂大乗論 巻上 依止勝相中衆名品第一』
:
(訳)
「それは何故、阿陀那識(※阿頼耶識の別名)と呼ばれるのか.
(それは阿陀那識が)一切の身体的感覚器官を掌握する能力があり、生存全ての拠り所であるからである。身体の寿命が続いていく間、阿陀那識によって感覚器官は壊れることも失われることもない。
そして(阿陀那識は)次生にも相続される。正に取陰(※阿陀那識による五蘊への執着)によって、生を受けるからである。六道に存在するものはみなこのように阿陀那識によって保持されるのである。
それ故にそれが阿陀那識と呼ばれる。」

:
※現代語訳は投稿者
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補足
龍樹や無著が輪廻を説いていたとしてもそれは個人的な意見に過ぎない、という驚きの反論を眼にしましたが、無名の僧侶の法話ならいざ知らず、龍樹と無著といえば中観派と唯識派という大乗仏教の二大潮流を作った論師です。
そして、大智度論と摂大乗論も大乗仏教を代表する論書です。

:
大乗の理論的支柱と言える二人が、その代表的著作で明確に輪廻を説いているのですから、それは「個人的意見」などではなく、大乗仏教の根幹に輪廻という前提があると見なすべきなのは明らかです。
:
また、この意見を述べた人は「大乗仏教に輪廻転生を教義の根幹とする宗派はありません」とも述べていますが、それなら日本の大乗宗派はなにを根拠に中陰法要(四十九日)を行っているのでしょうか?
中陰法要は死んでから次の生に転生するまでに「中陰」と呼ばれる猶予期間があるという説に基づいて、死者がより良い来生に転生できるよう追善供養をするというものです。
もし日本の宗派が輪廻を信じていないなら、彼らは自分が信じていないことのために儀式を行うことで布施を得るという詐欺的な行為を行っていることになってしまいます。

:
:

ダルマ太郎
作成: 2024/04/24 (水) 00:02:19
最終更新: 2024/04/24 (水) 00:15:38
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3
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 21:51:09

ダルマ太郎さん

2024/4/22 22:57

さて、龍樹は、中論の中で、「縁起の法を空と説き、これを仮名となし、またこれを中道の義とする」と論じています。鳩摩羅什は、

衆因縁生法 我説即是無
亦爲是假名 亦是中道義

yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe|
sā prajñaptirupādāya pratipatsaiva madhyamā||18||

多くの因縁によって生起する事象を空だと説きます
また これは名称によってのみ仮に有り
また これを中道の義だといいます

4
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 21:52:24

ダルマ太郎さん

2024/4/22 22:57

プラジュニャプティ prajñapti とは、「仮の設定」という意味です。仮設・仮説・仮名などと訳されますが、現代語に訳すと「概念」です。実体がないので、ただ付けらた名称によって存在するものです。

事象は因縁に依るので実体は有りません。これを私たちは空と言います。しかし、実体は無くても、名前として、概念としては有ります。この有るでもなく、無いのでもないことを中道と言います。

5
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 21:53:28

ダルマ太郎さん

2024/4/22 22:58

輪廻は空です。実体は有りません。しかし、概念として有ります。そのことを知らない人々は、概念上の輪廻を、事実として有るとみて、恐れ、悲しみ、絶望し、苦しみます。釈尊は、そのことを覚っておられたので、無我・無常を説いて、無執着へと導き、輪廻が幻であることを気づかせようとしたのでしょう。

大乗仏教では、業報輪廻にかわって「廻向」を説きました。廻向とは、振り向けることです。自分の善業の功徳を自分の成仏に振り向けたり、他者の救済・成仏に振り向けることです。業報を否定し、廻向を説くことによって、業報輪廻という概念を廻向に書き換えようとしたのでしょう。なので、大乗仏教の経典には、「輪廻は無い」と言って、明らかに輪廻を否定することもあります。

長文、失礼しました。

6
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 21:55:36

Sさん

質問者2024/4/22 23:53

非常に長文のお答えなのでどこから返信していいものか迷いますが。

まず事実関係について、根拠のよくわからないこと、完全な事実誤認と言えることを自明の前提がごとくおっしゃってるのが気になります。
そのように前提とされていることが根拠不明、或いは間違いなら、ダルマ太郎さんの論理にはあまり説得力がなくなってしまうからです。

>業報輪廻は、紀元前7世紀頃のカウシータキー・ウパニシャッドで説かれています。

カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃の成立という根拠はなんでしょうか?
ブッダの生没年さえ不明なのに、カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃で、ブッダより前の成立だと断言できる根拠はなんですか?

>それ以前から庶民には知られていたのでしょうが

輪廻がウパニシャッド以前から庶民に知られていたという根拠はなんでしょうか?

7
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 21:57:49

Sさん
:
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質問者2024/4/22 23:55
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>釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており
:
これも根拠がありません。
例えば、ブッダは中部の大獅子吼経において、サーリプッタ尊者を相手に輪廻によって赴く五道について詳細に説明を行っています。
ブッダより昔から庶民にまで知られていたことなら、なぜそのように詳細な解説を行わなければならないのでしょうか?

:
:
>インドには、カースト制度があり、カースト制度と業報輪廻が結び付いて、人々を苦しめていました。
:
カーストの理論的な背景として輪廻が用いられるようになったのがはっきりと確認できるのは、BC2世紀からAD2世紀頃に成立したマヌ法典によってです。
それ以前のヴェーダやウパニシャッドには輪廻によってカーストが決まるという説は説かれていません。ちなみにカウシータキが説く輪廻説は、天・人・動物の三種に輪廻するというもので、カーストについてなど一言も触れられていませんよ。

:

8
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 22:00:02

Sさん
:
:
質問者2024/4/22 23:58
:
>釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。
:
ブッダがブッダと呼ばれるようになったのは、三明と呼ばれる智慧を得たからであり、三明とは自らの過去世を見る宿住随念智、衆生の輪廻を見通す天眼智、そして輪廻から解脱を悟る漏尽智の三つの智慧です。
これは三明ヴァッチャ経という経典で明言されていますので、ブッダは輪廻を如実に知見していたというのが経典の伝える教えです。
ですからそれは不明でもなんでもないのでは?

:
これに限らず、初期仏教経典には輪廻について詳しく説く教えは山のように出てきますので、それを読めばブッダが業報輪廻をどのように捉えていたかはよく分かります。一言で言えば、それが有ることは肯定し、しかしその価値は否定していました。
そうでなければ輪廻からの解脱を説くはずがありません。

:

9
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 22:01:34

Sさん
:
:
質問者2024/4/22 23:58
:
>釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。
:
ブッダがブッダと呼ばれるようになったのは、三明と呼ばれる智慧を得たからであり、三明とは自らの過去世を見る宿住随念智、衆生の輪廻を見通す天眼智、そして輪廻から解脱を悟る漏尽智の三つの智慧です。
これは三明ヴァッチャ経という経典で明言されていますので、ブッダは輪廻を如実に知見していたというのが経典の伝える教えです。
ですからそれは不明でもなんでもないのでは?

:
これに限らず、初期仏教経典には輪廻について詳しく説く教えは山のように出てきますので、それを読めばブッダが業報輪廻をどのように捉えていたかはよく分かります。一言で言えば、それが有ることは肯定し、しかしその価値は否定していました。
そうでなければ輪廻からの解脱を説くはずがありません。

:

10
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:28:22

Sさん

質問者2024/4/22 23:59

まず、こうした事実関係について、私の疑問にお答え願えればと思います。
これは解釈とか思想の問題ではなく、事実についてのことなので、明確にお答えいただける事かと思いますので。

補足しますと、私は意地悪く揚げ足取りをしたいわけではないのです。
ただ、ダルマ太郎さんは要するに昔ながらの輪廻方便説を主張されていると思うのです。
輪廻方便説というのはブッダ以前からインド社会には業報輪廻説が浸透しており、ブッダは輪廻など信じていなかったが、人々を道徳的に教化するために輪廻説に迎合してこれを利用したという説です。

こうした説を説く人は仏教学者に多いのですが、そもそもの前提である「インド社会には業報輪廻説が浸透していた」というのが私にはまったく説得力が感じられないのです。
何故なら、経典の記述と矛盾するからです。

11
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:29:46

Sさん

質問者2024/4/23 0:28

大獅子吼経や業分別経にある通り、ブッダは智慧第一と呼ばれたサーリプッタ尊者含め、人々が輪廻について全く知らないという前提で業と輪廻の解説を行っています。輪廻が社会通念なら、とても奇妙なことと言わざるを得ません。また。輪廻が社会通念なら、輪廻を見通す三明を得たからブッダになったという教義も全く意味不明です。誰もが知っている常識を知ったからブッダになったということでしょうか??

つまり輪廻方便説は経典の伝承とまったく矛盾しているし、確かな根拠もないのです。だとすると方便説は崩壊しますよね、という意味で事実認識について伺っています。

12
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:31:13

ダルマ太郎さん

2024/4/23 7:43

お早うございます。

> まず事実関係について、根拠のよくわからないこと、完全な事実誤認と言えることを自明の前提がごとくおっしゃってるのが気になります。

歴史的なことなのに、そのことが事実かどうかは判らないのではないでしょうか? 特にインドの場合、歴史に関する資料がほとんどないといいます。説には、定説・仮説・異説がありますが、歴史は現在定説とされていることでも、何らかの証拠が見つかればひっくりかえります。歴史的な事実は、はっきりとは分からないのだと思いますが・・・

事実誤認だと決めつけることの根拠は何でしょうか? 釈尊が生まれたのは、二十世紀になってからである、などと書けば事実誤認だと断定ができるのでしょうが、二千年以上も前のことで、事実だとか、事実誤認だとかを量れるのでしょうか? 私は、経典や書物や論文を読んで、定説に近いものを選んで書いています。自分勝手な思い付きではありません。

13
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:32:57

ダルマ太郎さん

2024/4/23 7:45

> そのように前提とされていることが根拠不明、或いは間違いなら、ダルマ太郎さんの論理にはあまり説得力がなくなってしまうからです。

確かに客観的な根拠が欠けていれば、論理的とはいえません。論理的でなければ、説得力もなくなってしまいます。私も根拠のない意見の場合は、相手に根拠を尋ねますので、思いは分かります。お尋ねの内容について、すべての根拠は示せないかも知れません。なぜなら、記憶にあっても、どの経典だったのか、何の本だったのかを忘れていることが多いからです。

> カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃の成立という根拠はなんでしょうか?

古ウパニシャッドは、紀元前八世紀頃から編纂されたという本を読んだことがあり、カウシータキウパニシャッドは、最古のものではないけれど、古いものだと書いていました。よって、七世紀頃という見解を取り入れました。どの本なのかは忘れました。

14
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:34:43

ダルマ太郎さん

2024/4/23 7:45

> ブッダの生没年さえ不明なのに、カウシータキウパニシャッドが紀元前7世紀頃で、ブッダより前の成立だと断言できる根拠はなんですか?

釈尊の生誕の年が諸説あることは知っています。私は、中村元先生の説を取り入れています。紀元前463年~紀元前383年という説です。法華経に後五百年という言葉があります。これは、釈尊が亡くなって五百年という意味だという説が有力ですので、法華経が編纂された1~2世紀から五百年前ということで、だいたい中村先生の説と一致するからです。釈尊が紀元前4世紀頃だとしたら、カウシータキ・ウパニシャッドの方が古いと言えると思います。あくまでも仮説ですが。

> 輪廻がウパニシャッド以前から庶民に知られていたという根拠はなんでしょうか?

カウシータキ・ウパニシャッドでは、チトラ王がアールニ仙親子に輪廻について説いています。クシャトリアが、バラモンに説いているということは、その頃のバラモンには知られていなかった教えなのでしょう。また、王が知っているということは、庶民階級にも知られていたのではないでしょうか。

> 釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており

このことは、幾つかの本で読みました。たとえば、梶山雄一先生の『菩薩ということ』に書いてありました。私は、初期経典よりも、大乗仏教を学んできたので、『大獅子吼経』を読んでいません。少し調べましたが、その経典にサーリプッタ尊者は出ていますか?

15
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:37:19

ダルマ太郎さん

2024/4/23 7:46

> 輪廻によってカーストが決まるという説は説かれていません。

生まれによって身分が決まるということは、業報輪廻説と融合していますよね。

> 三明とは自らの過去世を見る宿住随念智、衆生の輪廻を見通す天眼智、そして輪廻から解脱を悟る漏尽智の三つの智慧です。

三明とは、超能力のようですね。本当にこのような超能力を釈尊が持っていたと思われますか? 私には、何らかの比喩表現のように思えます。Sさんの場合、経典に書いていれば、神々や魔物・悪魔の存在も信じるのでしょうか?

> ブッダは輪廻を如実に知見していたというのが経典の伝える教えです。ですからそれは不明でもなんでもないのでは?

不明というのは、釈尊は、輪廻が事実として有るとみたか、無いとみたかです。Sさんの意見では、「経典に悪魔が登場するのだから、悪魔は実在する」というのと同じではありませんか?

> これは解釈とか思想の問題ではなく、事実についてのことなので、明確にお答えいただける事かと思いますので。

Sさんのおっしゃる事実とは、経典に書いてあるか否か、なのですか? それも初期仏教経典に限るのでしょう? 私は、大乗仏教徒ですから、初期仏教の経典については知りません。かと言って、大乗の経典を引用しても、悉く否定するのではありませんか? よって、期待されるような明確な答えは持っていません。それよりも、龍樹の話はどうなったのですか? この質問は、そのことが本題でしょう?

16
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:38:26

ダルマ太郎さん

2024/4/23 7:48

> ダルマ太郎さんは要するに昔ながらの輪廻方便説を主張されていると思うのです。

方便とは、ウパーヤ upāya の訳です。「(真理に)近づける方法」という意味なので、すべての教えは方便です。輪廻だけが方便ではなく、業も、解脱も方便です。それらは言葉であって、真理ではありません。

以上です。

17
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:41:20

Sさん

質問者2024/4/23 9:11

わたしがカウシータキの成立年代を初めとする事実認識について確認したのは、ダルマ太郎さんの論旨が、「ブッダ以前に業報輪廻説がインド社会に浸透しており、身分制度と結びついて人々を苦しめていた」ということを前提としているように見えるからです。

しかし、パーリや阿含のような初期経典で明確に伝えられているのは次のことです。

%%{fg:blue}1. ブッダは止観の実践によって自ら輪廻を如実知見した

  1. そのメカニズムというべき業報という理についても完全に把握した
  2. さらに、行による智慧の開発によって業報を止滅させることに成功した
  3. これら一連のことを人にも説いたことによってブッダと称えられるようになった%%

これは私の解釈ではなく、多くの経典に書いてあることであり、仏教の根本的な教義ですから、是非ご自分でお読みになって確認してください。

そして、ダルマ太郎さんの論旨は、この仏教の伝統的なブッダ観を真っ向から否定しています。ですので、その立論の根拠を伺ったわけですが、どうも断片的な情報を元にした推測の域を出ないようなので、論理として脆弱、もっといえば成立していないように思われます。

問題は、ダルマ太郎さんの論理が正しいなら、初期経典の多くの記述と矛盾するのですが、そのことに一見仏教に詳しそうなダルマ太郎さんが全く気づいていないということと、その点を指摘されても、脆弱な根拠しかないのに、自身の説を再考することがないのは何故かということです。

それは見取(見解への執着)ではないのでしょうか?
そうでないなら、その考えを一度手放して、初期経典を読んで見るなりの努力は何故されないのでしょうか?

大乗仏教は初期経典を否定したのではなく、それを受け継ぐことを自負していた人たちによって始められたのですよ。

18
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:44:45

Sさん

質問者2024/4/23 9:17

>生まれによって身分が決まるということは、業報輪廻説と融合

身分制度は必ずしも理論的根拠を必要としません。近代以前の社会ならどこにでも身分制度があり、それは血縁に基づいているだけです。武士の家に生まれれば武士であるように、バラモンの家に生まれればバラモンとされていただけです。

勿論こうした身分制度が人々を苦しめていたという現実もあると思いますが、少なくとも初期経典の中で、身分制度がクローズアップされて問題とされているような記述は読んだことがありません。シュードラやアウトカーストの人が輪廻による身分制度に苦しみ、それをブッダに訴えるという説話などありませんし、ブッダがそうした問題について言及していることもないのです。

考えれば当然のことで業報は身分に限らず人々共通の問題だからです。バラモンだからといって業の報いを避けることは出来ませんから、身分制度など本質的な問題ではないのです。

>本当にこのような超能力を釈尊が持っていたと思われますか? 

止観の修習によって三明のような能力を開発するというのは仏教の修行論の柱ですよ。それは初期経典だけではなく成唯識論のような唯識の論書でも、現観荘厳論のような中観派系の論書でも説かれていることです。また、自分で禅定に入れるようになれば誰もがそうした能力の存在を知ることができます。

どうもダルマ太郎さんは座学に偏りすぎて、頭だけで理解できる範囲で仏教を理解されようとしているのではないでしょうか。もし論理の追求だけで仏教が理解できるなら、なんのために三学が説かれたのか自問されてみるべきではないでしょうか。

>その経典にサーリプッタ尊者は出ていますか?

大獅子吼経というのは同名経典が二つありまして、わたしが言及しているのは中部所蔵のほうです。

19
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:46:31

Sさん

質問者2024/4/23 9:21

>不明というのは、釈尊は、輪廻が事実として有るとみたか、無いとみたかです。

悪魔の存在というのは仏教の教学体系において根本のものではありません。しかし、輪廻というのは仏教全ての前提です。もしも仏教が輪廻からの解脱を説いていないなら、死ねば苦から解放されるということになりますよね? では誰も仏教を実践する必要などなくなりませんか? 私やあなたが死ぬことと、ブッダの入滅との根本的な差異はどこにあるのかといえば、それは再有(punabhava)があるかないかです。これを否定するならなんのための仏教なのでしょうか。

>龍樹の話はどうなったのですか?

龍樹の話に入る以前に、ダルマ太郎さんの事実認識に歪みが見えたので、その点を伺ったわけです。そしてその歪みは一向に解消されたように見えず、ダルマ太郎さん自身は歪みに気づいてさえいないようです。

20
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:49:32

Sさん

質問者2024/4/23 9:22

>それらは言葉であって、真理ではありません。

あなたは非有非無を誤解されていると思います。ダルマ太郎という名前は当然に仮名であり、その実体はありません。しかし、ダルマ太郎と仮に呼ばれている現象的個体(bhava)は縁起によって変転しながら存在しています。そうでないなら、私は誰とお話しているのですか?

そしてダルマ太郎という現象的個体は私と話したことによってわずかながらでもその未来を変えるでしょう。それが業報ということです。そのように無我なる現象的個体に連続性を与えているのが業であり、輪廻です。輪廻は概念・幻なのではなく、現在のダルマ太郎さんがそうであるように、縁起によって変転する現象として存在しています。それを仮設というのです。

「新たに発心して仏道に入った者は、空という存在の見方、空という教えに執着し、生死(輪廻)の業の因縁に関して疑いを持つようになるようだ。
『もし一切のものが究極的に空であり、来るのでなく、去るのでなく、出るのでなく、入るのでもないという有り方をしているならば、一体何が死んで生まれるのか。今、眼で見えるものでさえ、実体的に有るものではない。いわんや死後の他世は見ることもできないのに、有るということがあろうか』と。
こうした様々な誤った疑い、真理に反する心を断つために、仏は様々な因縁によって、広く、死が有り、生が有るということを説かれた。

(中略)
このように人の死や生は、来去する主体は無いといえども、煩悩が尽きないがゆえに、身体、心において相続し、さらに身体と心を生じさせる。身体と心を作る業そのものは後世に続なくても、その因縁は存続して後世において果報(業の結果)を受ける。」

21
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:52:44

ダルマ太郎さん

2024/4/23 21:31

> ブッダ以前に業報輪廻説がインド社会に浸透しており、身分制度と結びついて人々を苦しめていた

私は、そのように学んできました。一冊だけではなく、複数の本でそのように書いてありましたよ。経典にはない事実もあるんじゃないでしょうか? 

> これは私の解釈ではなく、多くの経典に書いてあることであり、仏教の根本的な教義ですから、是非ご自分でお読みになって確認してください。

私は、現在読んでいる途中の本が幾冊もあるので、初期仏教の経典を読むひまはありません。Sさんは、大乗よりも初期仏教の経典の方が勝れていると思っていませんか? 龍樹や世親の論書を読まれているようですが、全巻を読んだのですか? 大智度論は、全百巻の大作です。読むのに時間がかかります。第一、Sさんは、大智度論を持っているのですか?

> そして、ダルマ太郎さんの論旨は、この仏教の伝統的なブッダ観を真っ向から否定しています。

否定しているつもりはありません。

> ですので、その立論の根拠を伺ったわけですが、どうも断片的な情報を元にした推測の域を出ないようなので、論理として脆弱、もっといえば成立していないように思われます。

私が感じたことは、Sさんのいう根拠とは、初期仏教経典、それもパーリ語経典に説かれているかどうかなんでしょう? 経典主義者のように思えます。パーリ語経典に基づいていなければ、ダメみたいなイメージがします。「経典にはこのように書いている」と主張するだけでなく、その箇所の引用をしていただいた方がいいです。箇条書きされても、経典のことを知らないのでピンときません。

22
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:54:37

ダルマ太郎さん

2024/4/23 21:33

> 問題は、ダルマ太郎さんの論理が正しいなら、初期経典の多くの記述と矛盾するのですが、そのことに一見仏教に詳しそうなダルマ太郎さんが全く気づいていないということと、その点を指摘されても、脆弱な根拠しかないのに、自身の説を再考することがないのは何故かということです。

論理を展開したわけではなく、単なる意見・感想です。そんなに考えて書いたわけではありません。Sさんが、私の意見が初期経典の多くの記述と矛盾するととらえているように、私は、Sさんの意見は、大乗経典の多くの記述と矛盾していると思っています。初期仏教と大乗仏教は、同じ仏教でありながら、違う宗教のように違いますから、意見が違うのは当然のことです。Sさんは、自分の道を行けばいいし、私は私の道を行きます。

> それは見取(見解への執着)ではないのでしょうか? そうでないなら、その考えを一度手放して、初期経典を読んで見るなりの努力は何故されないのでしょうか?

初期仏教だけが正しいという考えを一度手放して、大乗仏教経典をきちんと学ぶという努力は、なぜされないのでしょうか?

> 大乗仏教は初期経典を否定したのではなく、それを受け継ぐことを自負していた人たちによって始められたのですよ。

そうですよね。だから、伝統的な経典の方が勝れているというのが初期仏教の信者であり、初期経典を発展させて作ったので、大乗経典の方が勝れているというのが大乗の信者です。人それぞれの考え方がありますから、他者を自分たちの道に勧誘するような行為は慎んだほうがいいと思います。

23
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 20:57:09

ダルマ太郎さん

2024/4/23 21:34

> 少なくとも初期経典の中で、身分制度がクローズアップされて問題とされているような記述は読んだことがありません。

出家したら、身分を捨てて、平等になるのでしょう。カースト制度を問題視していたから、そういうことにしたのではないでしょうか。

> シュードラやアウトカーストの人が輪廻による身分制度に苦しみ、それをブッダに訴えるという説話などありませんし、ブッダがそうした問題について言及していることもないのです。

Sさんは、初期経典をすべて読まれたのですか? 読んでいない経典に書いてあるかもしれませんよ。

24
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 21:18:10

ダルマ太郎さん

2024/4/23 21:35

> 止観の修習によって三明のような能力を開発するというのは仏教の修行論の柱ですよ。

現実にそういう超能力者に会ったことはあるのですか? 私は、経文を重視しますが、経典に書いてあることは、方便・比喩・象徴・因縁が多いので、文章通りには受け止めません。Sさんは、すでに三明を開発済みなのですか?

> どうもダルマ太郎さんは座学に偏りすぎて、頭だけで理解できる範囲で仏教を理解されようとしているのではないでしょうか。

私は、自分が学んだ行を実践しています。座学に偏っているとは思えないし、頭だけで教えを理解しようとも思っていません。戒定慧・八正道・六波羅蜜は重視しています。会ったこともないのに、私のことを決めつけるような発言をするのはいかがなものでしょう?

> もし論理の追求だけで仏教が理解できるなら、なんのために三学が説かれたのか自問されてみるべきではないでしょうか。

決めつけて、こだわり、執着するのは、智慧を得ることの妨げになりますよ。

> 大獅子吼経というのは同名経典が二つありまして、わたしが言及しているのは中部所蔵のほうです。

獅子吼大経のことのようですね。分かりました。

> 私やあなたが死ぬことと、ブッダの入滅との根本的な差異はどこにあるのかといえば、それは再有(punabhava)があるかないかです。これを否定するならなんのための仏教なのでしょうか。

経典では、釈尊は解脱者なのですから、再生はしないでしょう。

25
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 21:20:48

ダルマ太郎さん

2024/4/23 21:37

> 龍樹の話に入る以前に、ダルマ太郎さんの事実認識に歪みが見えたので、その点を伺ったわけです。そしてその歪みは一向に解消されたように見えず、ダルマ太郎さん自身は歪みに気づいてさえいないようです。

私の事実認識に歪みがあると判断したのはSさんですよ。事実というのは、初期経典の記述に基づいているのでしょう? 歪んでいるのは、Sさんかも知れませんよ。初期経典は、すべて釈尊の説法の記録だと思っているのですか? 

> あなたは非有非無を誤解されていると思います。

非有非無とは、「存在の否定・存在しないことの否定」です。この言葉によって、すべての存在についての執着から離れます。このことは誤解でしょうか?

> 輪廻は概念・幻なのではなく、現在のダルマ太郎さんがそうであるように、縁起によって変転する現象として存在しています。それを仮設というのです。

前にも書きましたが、仮設は、サンスクリットのプラジュニャプティ prajñapti の訳で、「仮の設定」という意味です。仮・仮説・仮名などとも訳されます。現代語に訳すと「概念」です。実体がないので、ただ付けられた名称によって存在するものです。

事象は因縁に依るので実体は有りません。これを私たちは空と言います。しかし、実体は無くても、名前として、概念としては有ります。この有るでもなく、無いのでもないことを中道と言います。プラジュニャプティについては、ご自分で学ばれてください。

以上です。

26
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 21:52:41

Sさん

質問者2024/4/23 23:26

prajñaptiに関する最後の文章は中論の24章を意識しているのだと思いますが、「実体は無くても、名前として、概念としては有ります。」と言ったら、何もないのに言葉だけがあるような意味になりますが、そうではないでしょう? 因縁によって生じた何かがあって、それに仮の名前をつけるというのがprajñaptiでしょう。

例えば、生まれてきた赤ん坊がいるから太郎と名付けます。太郎は仮の名前ですが、その前にそう名付けて呼ばなければならない個別の存在、現象があるわけです。それが仮設、すなわち因縁所生法ということです。私は現代人にわかりやすいように「現象」と呼んでいますが。

太郎という名前だけ、概念だけがあるのではなく、それが指し示す対象があるのです。「輪廻」というのも言葉で、概念ですが、概念「だけ」があるのではなく、そうした概念で把握されている因縁による現象があるということです。

概念としてのみ有るとか、幻だといったら、それは要する因縁所生法としても存在を認めないということになりませんか? それでは非有非無ではなくて、非有だけの無見でしょう。

27
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 21:54:34

Sさん

質問者2024/4/24 10:51

結局、ダルマ太郎さんが主張する輪廻方便説というのは非有非無と言いつつ、非有だけの断見であると私には見えます。

「輪廻は空です。実体は有りません。しかし、概念として有ります。そのことを知らない人々は、概念上の輪廻を、事実として有るとみて、恐れ、悲しみ、絶望し、苦しみます。釈尊は、そのことを覚っておられたので、無我・無常を説いて、無執着へと導き、輪廻が幻であることを気づかせようとしたのでしょう。」

この表現は輪廻という現象を幻、つまり言葉だけのもの、譬喩と見なす無見になると思います。非有非無というのは、固定的常住なものではないが、無でもなく、因縁所生の現象として生じているということです。

ダルマ太郎さんは常住ではありませんが、無ではなく、因縁によって生じています。この因縁のことを業報といい、輪廻というのではないですか?

これは初期仏教か大乗かという話とは関係のない話です。