仏教のお話

Rの会:方便品第二(前半)

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Rの会:妙法蓮華経方便品第二(前半)
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方便品(ほうべんぽん)とは
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太郎論:方便は、ウパーヤ upāya の訳です。語根は、upa-√i で、「~に近づく」です。仏教では、「真理に近づく方法」のことをいいます。方便品は、方便について説いた章です。釈尊は、人々を真理に近づけるために、さまざまな譬喩(ひゆ)因縁(いんねん)言辞(ごんじ)を説いたといいます。譬喩とは、たとえ話のこと、因縁は仏と弟子との関係のこと、言辞は語源のことです。
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無量義経では、「無量義とは一法より生ず」と説いています。無量義とは、無量の教義のこと、一法とは一つの真理のことですから、「無量の教義は、一つの真理から生じる」という意味です。法華経では、「無量の方便で一つの真理に導く」と説いています。無量義と無量の方便は、同じ意味で使われています。
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方便品は、仏弟子では智慧第一といわれた舎利弗に対して説かれました。しかし、あまりにも内容が深いために、舎利弗でさえも初めは理解できませんでした。方便品の説法が終わっても、それを覚れたのは舎利弗一人です。なので、難解な章だといわれています。
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2 upāyakauśalya-parivartaḥ|
=巧みなる方便の章
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ウパーヤカウシャリヤ upāyakauśalya とは、「巧みな方便」「方便の技能」という意味です。パリヴァルタ parivarta は「章」という意味です。
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ダルマ太郎
作成: 2024/04/20 (土) 15:52:12
最終更新: 2024/04/20 (土) 15:58:37
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ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 16:32:47 修正

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方便品の要点
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R論:この《方便品第二》は、《如来寿量品第十六》とともに、《法華経》の中心と言われています。なぜでしょうか。
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【第一の要点】は、釈尊は「人間は誰でも仏になれるのだ」という大宣言をなさったことです。すなわち〈一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている〉ということを教えられたのです。そして〈仏の目的は、すべての人びとに、自分自身がそなえている仏性を自覚させることにほかならない〉ことをはじめて明かされたのです。
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【第二の要点】は、これまで様々な方法で人々を導いてきた教えは、すべて真実だったのです。教えを聞く人びとの機根の程度にふさわしい教えを説いて~ その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを〈方便〉というのですが~ 方便のようにみえても、それは真実の道なのです。「方便が方便だった」と明らかにされたとき、はじめてそれがとりもなおさず「真実の道」だということがハッキリしてくるわけです。その〈方便すなわち真実〉ということを言葉を尽くしてお説きになります。
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太郎論:「人間は誰でも仏になれるのだ」という説は、理解できますが、「一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている」という説は違和感があります。仏性というものを私たちが持っているという意味に取られるかも知れません。そうなると、まるで仏性という実体が有るという感じになり、仏性に執着する結果になってしまうでしょう。実際にRの会の人と話すと、私たちは、仏性という仏と同じ心を持っている、と言います。釈尊は、無我を説き、無常を説いて、一切の執着から離れさせようとしたのですから、仏性を実体として観ることは仏教に反します。仏性とは、「成仏の可能性」という意味でとらえたほうがいいのではないでしょうか。「人間は誰でも仏になれるのだ」という説の方が執着をつくりません。
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「その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを方便というのです」というのは、方便の意味が違うように思えます。方便とは、真理へと導く方法です。最高の真理(妙法)は言葉では表せませんが、言葉でしか導くことができないので、方便を用いたのです。
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方便品の要点
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2
ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 20:22:15 修正

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迹門(しゃくもん)本門(ほんもん) 迹仏(しゃくぶつ)本仏(ほんぶつ)
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R論:〈迹門の教え〉は〈迹仏〉の教え。〈迹仏〉とは、実際にこの世にお生まれになった釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)のことです。ですから〈迹門の教え〉は一口にいって、宇宙の万物万象はこのようになっている、人間とはこのようなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間どうしの関係はこうあらねばならぬということを教えられたものです。いいかえれば、〈智慧(ちえ)〉の教えです。
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R論:〈本門〉では、本来仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを生かしている宇宙の大真理〈大生命〉であるということを明らかにされます。したがって〈本門の教え〉は、自分は宇宙の大真理である〈本仏〉に生かされているのだ。という大事実にめざめよ。というもので、〈智慧〉を一歩超えた素晴らしい魂の感動、本仏の〈大慈悲〉を生き生きと感じる教えです。〈慈悲〉の教えです。
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太郎論:迹仏としての釈尊は、「宇宙の万物万象はこのようになっている」「人間とはこのようなものだ」ということを説いているのでしょうか? おそらくは、縁起のこと、菩薩道のことなのでしょうが、そのことは法華経以前から説かれていますから、法華経で初めて説かれたわけではありません。智慧とは、真理を観察する能力のことなので、現象を通して妙法を覚るためにあります。現象を把握する能力とは違うと思います。
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太郎論:本仏とは、真理を体とする法身仏のことでしょう。真理によって現象が起こりますので、Rの会では、「あらゆるものを生かしている」と表現しているのでしょうね。しかし、大生命という言い方は、何だか神のように思えます。真理を法身仏だと譬えているのに、それをさらに大生命だと譬える必要があるのかが分かりません。実体を観るようになりそうに思えます。
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迹門と本門 迹仏と本仏
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3
ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 20:29:26 修正

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略して開三顕一(かいさんけんいち)を顕す
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言に寄せて権実二智を讃嘆する
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諸仏の二智を讃嘆する
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経:()の時に世尊、三昧(さんまい)より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく。諸仏の智慧(ちえ)は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞(しょうもん)辟支仏(びゃくしぶつ)の知ること(あた)わざる所なり。所以(ゆえ)は何ん、仏(かつ)て百千万億無数の諸仏に親近(しんごん)し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)して、名称(みょうしょう)普く聞えたまえり。甚深未曾有(じんじんみぞう)の法を成就(じょうじゅ)して、(よろ)しきに随って説きたもう所意趣解り難し。
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R訳:その時、無量義処三昧(むりょうぎしょざんまい)という三昧(さんまい)に入っておられた釈尊は、三昧を終え、静かに目を開かれました。そして厳かに立ち上がられ、誰からの質問も待たずに自ら口をお開きになり、舎利弗(しゃりほつ)に向かって語り始められたのでした。仏の『智慧(ちえ)』は大変奥深く、『真理』はあまりにも深淵であるために、ふつうの人々には真理の内容を理解するのは困難です。しかも、声聞(しょうもん)縁覚(えんがく)の境地にいる全ての者も、真理の意味を正しく理解することができません。仏はこれまでに無数の仏から教えを受け、数々の修行と努力を尽くしてきました。しかも様々な困難や、()き起る全ての煩悩にも打ち勝ち、ひたすら仏の境地に向かって精進(しょうじん)してきました。そしてついに、深淵な『真理』を悟ることができ、あらゆる人々から(あお)ぎ見られる身となったのです。
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太郎訳:その時に世尊は、瞑想から眼を覚まされると、尊者シャーリプトラに告げました。諸仏の得た智慧は、非常に深く、その智慧を得ることは、非常に難しく、智慧の門にはなかなか入れません。一切の声聞の弟子たちや縁覚の弟子たちでは理解しがたい内容です。人々が得ることの難しい智慧を、諸仏が得ることができたのは、仏は、過去に無数の諸仏を敬い、無数の諸仏の元で修行に修行を重ね、努力精進をしたからです。その結果、多くの人々に知られるようになり、尊敬されるようになりました。非常に深く得ることの難しい真理を覚って成仏した諸仏は、人々の機根に応じて教えを説かれましたが、その教えの内容の奥の奥の真意は人々には、なかなか理解できないものでした。
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権実二智とは
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太郎論:権実二智とは、権智と実智、方便と智慧のことです。法華経では、諸仏の二智を讃嘆し、どのようにして人々を覚りへと導くのか、その智慧と方便の具体的な実践を明かしています。
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諸仏の二智を讃嘆する
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4
ダルマ太郎 2024/04/21 (日) 16:08:30 修正

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三昧
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太郎論:法華経の説法は、方便品から始まります。序品では無量義処三昧に入っているために言葉は発していません。三昧とは、サマーディ samādhi の音写であり、「まとめる」、「心を整える」、「意図的な熟考」、「完全な吸収」などの意味があります。瞑想によって深い精神集中に入った状態のことです。無量義処三昧というのは、無量義の教えについて熟考することです。法華経には、たくさんの三昧が出てきますが、ほとんどは、そのことを熟考する意味です。
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無問自説(むもんじせつ)
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太郎論:通常、仏教の経典では、誰かの質問に応じて釈尊が答えるという形式をとります。しかし、方便品では、誰からの質問もないのに、釈尊が舎利弗(しゃりほつ)に対して説法を始めました。これを無問自説といいます。質問に答えるのであれば、質問者の機根に合わせて説法をする必要がありますが、無問自説ならば、対機説法にする必要がありませんので、少々レベルの高い教えも説くことができます。
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舎利弗(しゃりほつ)への説法
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太郎論:釈尊は、説法の相手に舎利弗を選ばれました。舎利弗は、仏教教団では「智慧第一(ちえだいいち)」だと言われています。その天才舎利弗に対して教えを説かれるのですから、これから説かれる教えは、かなりレベルの高い智的なものだと予想できます。舎利弗とは、シャーリプトラ Śāriputra の音写です。舎利弗の母親は、美しい眼を持っていたことから「シャーリ」と呼ばれていました。シャーリとは、鳥のサギのことです。サギの眼はギョロっとしているイメージですが、インドでは、美しいという感じなのでしょう。または、あだ名ではなく、本名だともいわれています。プトラは、「子」です。つまり、舎利弗とは、「シャーリの子」という意味です。玄奘(げんしょう)は、「舎利子(しゃりし)」と訳しています。
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仏の智慧(ちえ)
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太郎論:智慧とは、プラジュニャー prajñā の訳です。般若(はんにゃ)とも音写されます。真理(法)を観察する能力のことです。最高の真理(妙法)を得ることで、智慧を完成することができます。いわゆる般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)です。仏は、智慧を完成されて、妙法に目覚められていますので、仏の智慧とは、般若波羅蜜です。般若波羅蜜を得たことによって、無上の覚りである阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就されています。つまり、成仏されています。法華経以前に説かれた般若波羅蜜経では、智慧の完成がテーマでしたが、法華経では、般若波羅蜜の対象である妙法がテーマになります。
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太郎論:釈尊が、菩提樹の下で何を覚られたのかは分かりません。仮説としては、最高の真理である妙法と人々を妙法に導く方便の二つだといわれています。妙法は、言葉では表せません。なので、覚りを開かれた釈尊は、教化することを躊躇(ちゅうちょ)します。しかし、深く思惟(しゆい)し、方便力によって教化することを決められました。この方便とは何なのかが方便品のテーマであり、法華経全体のテーマでもあります。真理と方便、智慧と慈悲というキーワードが、法華経を学ぶときに重要です。
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太郎論:諸仏の智慧は甚深無量であり、その智慧の門は難解難入だと、釈尊はいわれます。覚りの境地は、非常に奥が深く、量ることができません。覚りの入口でさえも、それに入ることは難解であり、難入だと説かれます。その甚深無量・難解難入の智慧について、またその対象の妙法について、妙法へと導く方便について、これから法華経では説法が為されるわけです。
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三昧
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5
ダルマ太郎 2024/04/21 (日) 19:50:16 修正

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開三顕一(かいさんけんいち)
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声聞(しょうもん)とは
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太郎論:声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の意訳です。「声を聞く者」のことで、初期仏教では、釈尊の声を聞く者という意味であり、仏弟子という意味でした。つまり、出家と在家、男性と女性という区別はなく、仏弟子であれば、みんなが等しく声聞と呼ばれていました。大乗仏教になると、声聞とは、出家者のことをいうようになり、自分だけの解脱(げだつ)を求める者として大乗仏教徒から攻撃されました。
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辟支仏(びゃくしぶつ)とは
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辟支仏とは、プラティエーカ・ブッダ pratyeka-buddha の音写です。「独りで覚った者」という意味で、独覚・縁覚などとも訳されます。縁覚とは、縁起を覚った者という意味です。日本では、縁覚という表現が好まれているようですので、私も縁覚と表すことにします。出家者は、家を捨て、家族を捨て、財産・土地・身分を捨てて、仏教教団に入り、僧伽(さんが)の中で修行します。ある程度修行が進むと僧伽からも離れて、山奥に入り、独りで修行する者がいました。それが縁覚です。仙人のようなイメージです。縁覚は、覚りを得ても他者に教えを布施しませんでしたので、声聞と同じく自分だけの解脱を求める者として、大乗仏教徒から攻撃されました。
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三乗
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声聞・縁覚は、個人の救われしか求めないので、大乗仏教徒から「劣った乗り物」という意味で、ヒナヤーナ Hīnayāna と呼ばれました。中国では、「小乗」と訳しています。大乗仏教徒は、自分たちのことを菩薩と呼び、大乗だといいました。大乗とは、マハーヤーナ Mahāyāna の訳で、「大いなる乗り物」の意味です。
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声聞・縁覚を二乗ともいいます。釈尊は、誰もが仏に成れると説いていたのに、二乗の仏教徒たちは、自分たちが成仏できるはずがないとして、阿羅漢(あらかん)の位・辟支仏の位を目指しました。辟支仏は、覚ってはいても、最高の覚りを得たわけではありません。成仏という目的を捨てているので、大乗仏教徒は、二乗は成仏不可だといいました。大乗仏教徒は、自らを菩薩と呼び、成仏を目指す者だと宣言しています。仏道のプロが、新興仏教の大乗に馬鹿にされたため、二乗の仏教徒は、大乗を伝統のない、でっちあげの仏教だといって攻撃しています。こうして、声聞・縁覚と菩薩は対立していました。
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法華経では、この声聞・縁覚・菩薩を三乗だと呼んでいます。そして、三乗とは方便であって、仏は一仏乗を説くのだとおっしゃっています。一仏乗の修行者のことも菩薩というのでややこしいのですが、三乗の菩薩が二乗を差別したのに対し、一仏乗は差別をしません。
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開三顕一(かいさんけんいち)
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方便品では、三乗は一仏乗に導くための方便だと説いています。聞解を好む者には声聞乗を説き、思惟を好む者には縁覚乗を説き、修習を好む者には菩薩乗を説いてきたけれど、それらの教えは、ただ一仏乗へと導くための方便だというのです。これを天台宗は、開三顕一といっています。開とは「開除」、顕とは「顕示」のことです。とらわれの心を開除し、真実を顕示するので開顕といいます。開三顕一とは、三乗への執着を開除し、一仏乗を顕示することです。
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法華経では、その当時の修行者のタイプから声聞・縁覚・菩薩という区別をしていますが、これは、「無量の方便を説いて妙法に導く」ということの譬喩です。よって、現代においては、宗派や教団に当てはめるのがいいと思います。日蓮系・禅系・浄土系の宗派があるけれど、それは方便であって、すべての教えは仏道だということです。
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開三顕一
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6
ダルマ太郎 2024/04/27 (土) 14:47:32 修正

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百千万億無数の諸仏
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太郎論:百千万億無数というのは、百×千×万×億×無数 というように、すべての積です。無数が入っていますので、数えきれないほどの数です。仏は、過去において、無数の仏に親近したといいます。仏は、滅多に現れないのに、無数の仏に出会ったとはどういうことなのでしょう? たくさんの仏に出会ったということなのでしょうが、あまりにも数が大きいですね。おそらく、この場合の仏とは、応身仏なのでしょう。真理によって現象がありますが、真理のことを法身仏、現象のことを応身仏といいます。多くの諸仏とは、自然界に現れた自分を導く存在の事なのでしょう。そういう存在を仏と見て供養・恭敬・尊重・讃歎することは大事なことだと思います。
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勇猛精進
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太郎論:勇猛精進とは、自らが進んで励み、勇敢で努力を続け怠らないことです。サンスクリット原典では、クルヤ・ヴィーリヤ kṛta-vīrya です。「勇敢に行動する」という意味です。
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名称普く聞えたまえり
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太郎論:有名になることによって、多くの人々が教えを聞きに来ます。
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甚深未曾有の法
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太郎論:「非常に奥深く、見聞したことのない真理」という意味です。つまり、妙法のことです。
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宜よろしきに随って説きたもう所意趣解り難し
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R論:すなわち〈方便〉によって(真理を)お説きになることです。方便の教えを聞いた人は、それによって幸福の階段を一段上ったことは確かなのですが、たいていそれで満足してしまうために、仏の真意がずっと上にあること(すなわち、すべての人を仏の境地まで引き上げたいという最終目的)に気がつかないのです。この『所意趣解り難し』というのは、(真意を)理解しにくいというのではなく、〈気が付かない〉という意味です。

太郎論:宜しきに随って説きたもう所とは、「随宜説法(ずいぎせっぽう)」とも言います。相手の機根・性質・欲求に合わせて教えを説くことで、「対機説法」ともいいます。相手に応じて教えを説いても、仏の意図は伝わらなかったといいます。それほど、妙法は奥深くて理解し難いということでしょう。
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百千万億無数の諸仏
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7
ダルマ太郎 2024/04/27 (土) 20:39:22 修正

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釈尊の二智を讚歎する
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経:舎利弗。吾、成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬諭をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん。如来は方便・知見波羅蜜皆すでに具足せり。舎利弗。如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。
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R訳:舎利弗よ。私が悟りを得てから今日まで、様々な過去の事例や譬えを用いて法を説いてきました。それは人々を『執着』の苦悩から離れさせるためのものであって、なぜそれが出来たのかというと、それは私が、『方便』と『智慧』の両方を完全に具えているから可能であったのです。舎利弗よ。仏の『智慧』は非常に広大で奥深いものです。仏は宇宙全体のあらゆるものごとを知り尽くし、遠い過去からはるか未来のことまでを見通しています。そればかりか、『慈・悲・喜・捨』の『四無量心』という人々に福を与える大徳を具えています。そして何事にもとらわれない『完全なる自由自在』な『四無碍』の境地を得ています。そして、何者に対しても恐れずに法を説くことができる『四無畏』という徳力も具えています。心は散乱することなく完全に『苦』から抜け出して解放されており、今まで誰も知ることができなかった『真理』を完璧に悟っているのです。
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太郎訳:シャーリプトラよ。私は、成仏してからこれまで、様々な過去の実例や体験談、様々な譬え話によって、広く人々のために教えを説き、無数の方便の教えによって、人々を仏道に導いて執着の心を離れさせてきました。なぜ、そのようなことが出来たのかというと如来は、方便と智慧を完成させているからです。シャーリプトラ。如来の智慧は、広く、大きく、深遠です。人々への慈悲の心は無量であり、自由自在です。人々を救うための智力があり、畏れがなく、禅定の境地、解脱の境地、三昧の境地にあって、深く無分別の境地に入っており、これまでの人類が達していない最高の真理を得ました。
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太郎論:最初に諸仏の二智(智慧と方便)を讃嘆し、次に釈尊の二智を讃嘆しています。諸仏がそうであったように、釈尊も人々を真理へと導くために、方便を用いたことが説かれています。因縁とは、関係のことです。主に仏陀と弟子との過去の関係・出来事を通して、真理へと導く方法です。譬諭とは、たとえ話によって真理へと導く方法です。釈尊は、これまで、これらの方便を用いて、人々を執着から離れさせてきました。それが出来たのは、釈尊が、方便波羅蜜・智慧波羅蜜を具えているからです。
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法華経では、弟子たちの持つ様々な執着を指摘し、執着から離れるように導いています。それは、「声聞は成仏できないこと」「悪人は成仏できないこと」「女性は成仏できないこと」などです。
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般若経では、六波羅蜜が説かれましたが、法華経では、十波羅蜜が説かれています。十波羅蜜という言葉は出てきませんが、それぞれの項目については説かれています。それは、六波羅蜜に「方便・願・力・智」という波羅蜜を加えたものです。
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釈尊の二智を讚歎する
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8
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 01:10:10

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言を絶して権実二智を讚歎する
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言を絶する由
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経:舎利弗。如来はよく種々に分別し、巧に諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗。要を取ってこれを言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。
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R訳:舎利弗よ。仏というものは相手の機根と場合に応じて、様々に説き方を変えて巧みに教えを説きます。しかも、言葉を嚙みくだいて相手に判りやすく説き、それによってその人に『よろこびと満足感』を与えるのです。
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太郎訳:シャーリプトラよ。如来は、相手に応じて様々に説き方を分けて、巧みに様々な教えを説きます。相手に分かりやすい言葉を選んで柔らかく教えを説き、人々に悦びの心を起こします。シャーリプトラよ。要約して言いましょう。仏は、最高の真理を完全に覚っているのです。
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太郎論:釈尊は、相手に応じて教えを説き、人々を悦ばせてきました。そういう方便を使えるのは、最高の真理(妙法)を完全に覚っているからだと告げました。つまり、釈尊は、妙法を覚っているから、巧みに方便を使えるのです。こうやって、何度も繰り返し方便を讃えるのは、仏教にとって方便が非常に重要だということでしょう。方便力を身につけて、人々を救済・教化しましょう、というメッセージのためです。
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言を絶する由
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9
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 01:23:14

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正しく言を絶する
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経:止みなん、舎利弗。また説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏といましよく諸法の実相を究尽(くじん)したまえり。いわゆる諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。
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R訳:ところがここまでお説きになると、世尊は突然、黙りこまれました・・・。「やめよう舎利弗。真理を説いても誰も解るものではない。だから説くのはやめよう。なぜならば『真理』は稀有で最高の教えであり、それは仏と仏との間でしか理解できないものです。ふつうの人間では到底理解できるものではありません。『真理』とは、この世の実相を説き示したものであり、それは『相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等』という作用と関係で成り立っていることを示しています。これを『十如是』と言います。仏はこの『真理』を悟ったのであります。
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太郎訳:止めましょう、シャーリプトラ。このことは、説かないほうがいいでしょう。なぜなら、仏の覚った真理は、最高であり、稀であり、非常に難解です。ただ、仏と仏だけが、よく諸法の実相を見極めているのです。諸法の実相とは、諸法の相の真実、諸法の性の真実、諸法の体の真実、諸法の力の真実、諸法の作の真実、諸法の因の真実、諸法の縁の真実、諸法の果の真実、諸法の報の真実、諸法の相から報までが等しいという真実ということです。
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正しく言を絶する
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10
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 02:35:52 修正

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諸法実相
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R論:宇宙のすべてのもののありのままの真実の相(すがた)。これを大きく分ければ、➊『すべてのものごとの、現象として現れている相(すがた)をありのままに観る』。➋『すべてのものごとの本質の相(すがた)を観る』の二つになります。
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『すべてのものごとの、本質の相(すがた)をみながら、現象として現われている相(すがた)をも、ありのままにみる』ことになります。~ 仏の立場からすると、すべては「大調和の世界(涅槃)」なのです。仏はそれを見極めて、われわれに示して下さいました。凡夫であるわれわれがそのように見ることができずに大調和しないのは、人間たちが小さな「我」をもってものごとを見、考え、行動するからであって、全ての人が「我」に執着する心を捨てて、ありのまま(如是)の心をもってすべてを見、考え、行動すれば、この世はこのまま涅槃の相になるのだと教えられているのです。
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太郎論:実相とは、真実無相の略だと解説されています。よって、諸法実相とは、事物・現象が真実としては、特徴が無い、ということです。これまでは、「無量の教えは一つの真理から生じる」「一つの真理を無量の方便にして教える」、というように、教え(方便)と真理のことを説いていましたが、ここでは、「無量の現象は一つの真理から生じる」「一つの真理を無量の現象(方便)にして教える」、というように、現象(方便)と真理のことを説いています。このことは、如来寿量品で詳しく説かれますが、方便品の最初にこのことが説かれていることが興味深いです。
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縁起観
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R論:全ての存在やそのはたらきは、因縁所生(因と縁があって生ずる所)のものであり、縁起(因が縁にあって起こる)であるということができます。これがお釈迦さまのさとりの一大根本であり、すべての教えはここからでているといっても過言ではありますまい。これを「縁起観」といいますが、《諸法実相》の教えもこの「縁起観」が根本になっていることは、言うまでもありません。
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太郎論:縁起とは、プラティーティヤ・サムトパーダ pratītya-samutpāda の訳です。プラティーティヤが「縁」、サムトパーダが「生起」なので、「縁って起こる」という意味です。縁起は、仏教の根本教義であり、初期仏教の経典から密教の経典まで、すべての教えの土台になっています。一切を苦と観るのは、ものごとが縁起によるからです。自力だけでなく、他との関係によってものごとは起こりますから、自分の力ではコントロールはできません。老いるのも、病も、死も、医療によって少しは抵抗できますが、いずれは老化し、病気が悪化し、死んでいきます。自分の思い通りにならないことを、思い通りにしようとするから苦なのです。無常は、縁が変わるから、因も変わります。縁起は、因+縁という単純なものではなく、無数の事象との関係によって起こりますので、縁によって生じるものは無常です。無我は、縁によって起こるものは、仮の存在であって実体は有りませんから、無我といいます。このように教義のベースには、必ず縁起という教義があります。
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諸法実相の教義も「因縁果報」という言葉が出てきますので、縁起がベースにあります。しかし、十如是の場合は、あるものの因縁果報を見るわけですから、因はこれ、縁はあれというように分けるのではなく、因としてのこれ、縁としてのこれ、というように観ます。このことは、後に十如是の解釈をするときに、詳しく説明いたします。
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一念三千
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R論:すべての人間は「平等な存在」であることは、『無量義経 説法品』でのべました。ところが、現実の相として現われているものは、賢い人・愚かな人・心美しい人・心いやしい人等々、じつに千差万別であり~ はなはだしい上下の相違があります。そこで、「人間本来平等」であるということも真実ではあるけれども、現実のあらわれにおいて『不平等』であるということも真実であります。したがって人間をみるときには、この『平等』・『不平等』の両面からみなければ、その本質はつかめないわけです。ところが、もっと深く考えてゆきますと、その『不平等』というのは決して固定したものではなく、つねに流動しているものだということがわかってきます。~ある条件(縁)にあえば、心いやしい人も心美しい人に変わることができ、逆に、不善の心や行為という因が、ある縁にあえば、幸福に満ちた人がたちまち苦悩のどん底に落ち込むこともありえます。~ 心の持ち方さえ変えれば、どの世界へも行くことができるのです。そういう可能性を、人間は平等に持っているのです。ですから、目の前に見る『不平等』は、決して固定した『不平等』ではなく、自由に流動させることのできる『不平等』です。つまり、〈『不平等』をどうにでもつくることのできる可能性を、みんなが等しく持っているところに『人間の平等さがある』〉と言うこともできるわけです。
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太郎論:一念三千は、天台大師智顗が提案した止観の一つです。止観とは、精神を統一させ、観察することです。一つの心に三千の世間(諸法)が具わっていることをいいます。刹那の一心に十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)があり、その十界のそれぞれに十界が具わって百界となり、さらに十如是が具わって千如是となり、それに三世間(衆生・五陰・国土)が具わって三千世間となります。ほんの刹那の一心に、三千世間が具わっていることを観察します。
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諸法実相
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ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 19:22:57 修正

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諸法実相 サンスクリット原典
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経:tathāgata eva śāriputra tathāgatasya dharmān deśayed yān dharmāṃs tathāgato jānāti | sarva-dharmān api śāriputra tathāgata eva deśayati | sarva-dharmān api tathāgata eva jānāti | ye ca te dharmāḥ yathā ca te dharmā yādṛśāś ca te dharmā yal-lakṣaṇāś ca te dharmā yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ | ye ca yathā ca yādṛśāś ca yal-lakṣaṇāś ca yat-svabhāvāś ca te dharmā iti | teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo 'parokṣaḥ ||
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訳:シャーリプトラよ。実に如来は、如来が知っているところの諸法を如来のために示されるだろう。シャーリプトラよ。すべての法についてもまた、如来が示される。すべての法についてもまた、如来こそが知っている。諸法とは何か? 諸法とはどのようにあるか? 諸法とはどのようなものか? 諸法とはどのような特徴を持つか? 諸法とはどのような性を持つか? 諸法とは何か? どのようにあるか? どのようなものか? どのような特徴を持つか? どのような自性を持つか? ということを。それらの法について、如来だけが明瞭にし、明らかに見ている。
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サンスクリット原文からの現代語訳は、植木雅俊先生の『法華経』を参考にしました。
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太郎論:このように、「それらのものごとが、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような自性を持っているのかを如来だけが知り得ている」と説かれています。サンスクリット原典には五つの項目しかありませんが、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経には十の項目があります。このことで、天台智顗の一念三千の根拠を失うという方もいますが、三千とは諸法の事なので、数にはこだわらなくていいように思えます。
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五つの項目とは、①諸法とは何か? ②諸法とはどのようにあるか? ③諸法とはどのようなものか? ④諸法とはどのような特徴を持つか? ⑤諸法とはどのような性を持つか? です。
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諸法実相 サンスクリット原典
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ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 23:39:05 修正

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相性体力作因縁果報について
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1.(そう) ラクシャナー lakṣaṇa
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相とは、ラクシャナー lakṣaṇa の訳です。特徴・特質・名称の意味です。外形・姿かたちという意味もあります。それを他と区別する時は、そのものと他との違いを観ます。他との違いを特徴といい、特徴があれば他と分けられます。他との区別ができたものには、名称をつけていますから、相とは名称のことだという見方もあります。赤い花、大きな犬、美しい宝石などのように、それらは言葉によって表されます。真理としての相(如是相)は、無相です。他と比べなければ特徴はありませんから、それ自体に何らかの特徴はありません。そのものの相の有無は否定されます。
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2.(しょう) スヴァバーヴァ svabhāva
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性というのは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳です。自性・本性・本来のありかたという意味です。赤い花なら、赤を赤とする性、花を花とする性があり、全体として赤い花としての性があります。インド人は、表面的な相とそれを成り立たせる性の二方向から観察しました。相があるところには、性がありますので、相性は一体です。真理としての性(如是性)は、無自性です。諸法の実体は欠如していますので、自性もありません。また、そのもの以外によって特徴があるように、そのものを成り立たせるのは他(縁)です。つまり、因縁に依って、諸法は仮に有りますから自性の有無は否定されます。空です。
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3.(たい) ダーツ dhātu
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体とは、ダーツ dhātu の訳です。「花が香る」という場合、香りの主は花です。このような何らかのはたらきを持つ主のことを体といいます。体は、相によって認識され、相は性と一体ですから、相性を持つ主体のことでもあります。相性体を総じて体ともいいます。真理としての体(如是体)は、無体です。無相であり、無自性であるならば、その主体の有無も否定されます。
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4.(りき) バラ bala
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力とは、バラ bala の訳です。内に秘めた力、力用、潜在能力のことです。花が香るのは、その花に香りを出す力があるからです。真理としての力(如是力)は、無力です。力の有無は否定されます。
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5.() カーラカ kāraka
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作とは、カーラカ kāraka の訳です。作用・はたらき・力の発動のことです。花が香る時、香るということが作です。ものごとは、体と用(ゆう)によって観察されます。「花が香る」「水が流れる」「風が吹く」というように、主語と述語、名詞と動詞によって言葉にされます。私たちが、そのものを認識するのは、体用に依ります。そのものが何らかの働きをしなければ、主体を観ることはありません。見せる・聞かせる・嗅がせる・味あわせる・触れさせるなどの働きを発っしています。真理としての作(如是作)は、無作です。作の有無は否定されます。
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ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 23:41:25 修正

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相性体力作因縁果報について 2
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6.(いん) ヘーツ hetu
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因とは、ヘーツ hetu の訳です。原因・理由・動機のことです。花が香る時、その主体は花ですから、因とは花のことです。花が香ることが結果です。花は香りという力を発動して、風や温度などの環境を縁とし、さらに香りをかぐ縁を得て、はじめて花が香ります。
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7. (えん) プラトヤヤ pratyaya
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縁とは、プラトヤヤ pratyaya の訳です。プラトヤヤも原因という意味なのですが、仏教では、結果に至る原因は一つではなく多数であると観ますので、主原因を因といい、主原因を助ける原因・条件を縁といいます。合わせて因縁です。よって、因は一つですが、縁は多数あります。深く観察すれば、縁は因以外のすべてのことです。
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十如是の場合、一つの現象を観察します。「花が咲く」という現象を観て、そのことの相性体力作因縁果報を観ます。よって、「花が咲くことの縁」を観ます。花が咲いたことによって、他にどのような縁となるかを観るのです。花が咲けば、人はそれを見るし、蜂や蝶は蜜を吸いに来ます。そのように、それがどのような縁になっているのかを観察するのですから、「花が咲くことの縁は、水・光・温度・空気・養分・堆肥だ」というような見方ではありません。
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8.() パラ phala
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果とは、パラ phala の訳です。結果という意味です。今、この瞬間を切り取れば、すべての物事は、因としても、縁としても、果としても観ることができます。しかし、普通、私たちが見ているのは結果です。
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9.(ほう) ヴィパーカ vipāka
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報とは、ヴィパーカ vipāka の訳です。通常、果報といいます。結果とは、花が咲く、花が香るというような状態のことですが、果報とは境界のことをいいます。境界とは、苦楽、もっと分ければ、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上という境界です。花が咲いているということは、きちんと育った成果でしょうから、楽の境地、天上界にあるといえます。もし、成長の段階で枯れている草があれば、それは苦の境地、地獄界にあるといえるかも知れません。
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よく報を時間経過として観る方がいますが、この十如是は、瞬間的にそのものを十の視点で観察しているのですから、時間という概念は必要ありません。相性体力作因縁果報等は、時空の一点についての観察です。もちろん、他との関わりはありますが、観る対象は一つです。
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10.本末究竟等(ほんまつくきょうとう) サマ sama
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等というのは、等しい、平等のことでしょうから、サマ sama の訳だと思います。相性体力作因縁果報は、それぞれに違って見えるけれど、究めれば平等だということでしょう。すべては空ですから、仮に相性体力作因縁果報と分けて観察しても、究めれば平等だということです。
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相性体力作因縁果報について 2
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ダルマ太郎 2024/04/30 (火) 08:37:18 修正

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十如是について
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太郎論:天台教学では、読経の時、十如是を三回読みます。これは、三諦(空・仮・中)の義に配したものです。
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是相如(是の相も如なり)=空 この相も真理である
如是相(是の如きの相)=仮 このような相
相如是(相も是の如し)=中 相もこのようである

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事象の真理は空であり、このような事象は仮であり、事象は縁起によって有るので、実体は有りません。龍樹の場合、中とは「非有非無の中道」なのですが、天台では、「有空の中道」で解釈しています。私たちが、相性体力作因縁果報と観ているのは、仮であって実体は有りません。特徴は空だし、自性は空だし、体は空です。力作因縁果報も同様に空です。すべてが空なので、「本末究竟等」だと説きます。
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事象を観察し、真理を覚るのです。諸法の実相を知ることによって、すべての事象が、一つの真理から生じていることを知見します。逆に言えば、「一つの真理から、無量の事象が生じる」ということです。応身仏である釈尊は、言葉によって人々を真理へと導きましたが、法身仏は、現象によって人々を真理へと導きます。現象を方便と観ることが鍵です。
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説法の初めに、法身仏のことが出てくるので、聞いている人たちは、皆、意味が分かりませんでした。智慧第一の舎利弗でさえも、この時点では、理解していません。この後の説法で、徐々に法身仏のことが明らかになっていきます。
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十如是について
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