アレクサンドル・タクヤンは、ソ連の航空技術者・飛行機設計士。画期的な航空機を多数設計したが、その多くが何かしらの欠陥を抱えており、アルチョーム・ミコヤーンに「あと一歩だけど、ちょっと足りなそう」と評された。
タクヤンはミハイル・ウリーヴィチと共同で独自のタクヤン=ウリヴィッチ設計局(Ta)を持っていたが、ウリーヴィチは実質的にはタクヤンの監視役であり、航空機の設計はほとんどタクヤンが行っていた。このことは設計局の表記ががTaであることにも表れている(後付け競パン)。タクヤンは変態的な性格でも知られており、しばしば指導者と対立した。
1935年に初めてTIT-1グライダーを設計してから航空機技術者としての才能を開花させ、1939年には独自の設計局を持つまでに急成長した。しかし1948年に同設計局のジェット戦闘機Ta-9が初歩的な欠陥で墜落事故を起こしたことで信用を失い、同年に設計局は一時解散、タクヤンは幽閉されることとなった。しかしスターリンの死後、スターリン批判の流れの中で彼と「対立」していたタクヤンは釈放されることとなった。その後設計局を復活させ航空機開発に復帰、数々の意欲的な航空機を開発した。
・タクヤンは航空機開発の傍ら一時期小規模な集団農場を監督しており、その際にスターリンを讃える意味を込めて「スターリン調教センター」と名付けていた。スターリンこれを嫌がりすぐに改名させようとしたが、タクヤンが信じられないほど駄々をこねた上に、タクヤン自身が非常に優秀な技術者であったために、スターリンの方が妥協して「モスクワ調教センター」に改名した。これ以降スターリンはタクヤンを嫌うようになり、監視役としてウリーヴィチをつけるようになった。
・タクヤンが設計したTa-“греческая скульптура(ギリシャ彫刻)”は非常に細長い主脚が特徴的であった。デモンストレーションの際フルシチョフがこれについて尋ねると、タクヤンは「人間のような滑らかでしなやかな接地のためである」と答えた。しかし試験機は着陸の際に機体を縦に振動させ、細く貧弱な脚部をバタつかせながら滑走するという醜態を晒した。これを見たフルシチョフはタクヤンに、「君はこのようにして走るのかね。」と皮肉を言ったという。
・設計局内で流行したタクヤンのアネクドート
「新聞に掲載されたタクヤンのインタビュー記事にて『お前を《中略》芸術品に《中略》してやるよ。』」
父称はなんだゾ?ウリーヴィチとかでいいかゾ?
あーいいっすねぇ!
文章自体はよく見るとガバスカクオリティだから、各々想像で保管してくれてたら嬉しいゾ。
(加筆)でもタクヤンの監視役のウリーヴィチと被っちゃうゾ
ロシアで名前かぶりは結構あるみたいだからねしょうがないね
そうだよ(肯定)