Twitterでおおっぴらに話すと差し障りのある話。
なんか機会あったら酒の席で……
削除しました
ありがとうございます。
※投稿時に「アカウントと関連付けない」をチェックすることでいわゆる匿名での投稿が出来ます。
pixivからの脱却だと息巻いて作った小説サイト、運営から1年と4ヶ月経った今、12本しかまだあがらず、views数が一番多いので300なんぼという現状について、何も語らないのはどうしてなんだろうかなとはちょっと思ってはいる。 いや、何も悪いことはないんだが、宣伝とかどうしてせんのだろうかとはちょっと思ってる。 昨今のXとか考えると、コンセプトは悪くないはずなのだが。飛ばし課金以外は。
ちゃんと作ったんだからもっと宣伝してもいいとは思いますね。
課金システムを自分で作れないので飛ばし課金にしますみたいなクソ理論以外は何も問題ないので宣伝していいと思うんですけどね、ほんと。
福田雄一作品わりと好きなんだけどTwitterだと書きづらくない?
10年前にムロツヨシ総受けアンソロジー(R-18)あったんだけど総受けといいつつ大半の作品の攻めが福田雄一、残りは小泉孝太郎だった話とTwitterだとしづらいけどこの面白さを書きたい場所はTwitter
1作だけ長期連載かつ売れてしまい、終わらせも出来ないと人間は少し傲慢になるのかもしれない。
て思ったけど、尾田せんせくらいになってしまうともう戯言ほざいてる暇とかないんだろうから、その辺は関係ないのかもしれん。
はじめの一歩、もう真面目に描いてるようには見えないしな。
なんとなくつぶやいてからいま何やってんだろと思って西なんとかさんを調べに行ったら あれから新しい絵本は一つも出さずに(依頼して撮らせた短編映画とビジネス書は一冊出ていた)まだプペルを擦っていて、さすがだなと感心してしまった
「異常な書き込みのこだわりで世界を表現する才能」で絵本を売り出したはずなのにいつの間にか発想やアイディアがずば抜けていることにしてるのはマーケティングとしてはすごく正しい気がする
プペ映画の評価で書き込みがすごいに関する評価が西さんではなく制作スタジオへと向けられてたり、雰囲気としては総合プロデューサーとしてすごいに切り替わっているところを見ると乗り換えが非常に上手いのかもとは思いました。今後はそういう方向性に進んでいくんじゃないかなと。
そういや、所謂「ガンダムパロ(ファースト含む)」って今後生まれていくのだろうかとテレ東の『ウィングマン』を見ながら思ったりしてる。もうネタわかんない世代増えてるというか、作り手のおっさん化と受け手の低年齢化が顕著になると結構ひどくなるのでは。
いや、俺のときもそうだったから関係ないか。
「プペルの背景絵はすごい!プペルはアニメ映画として絵が綺麗!」と言われてもやもやしていたが、トラペジウムおじさんとして胸を張って「トラペジウムとかガルパン最終章の方がすげぇわ、何考えてんの?」と言えるようになって、少しほっとしている。
プペルは初出の時のテーマにちゃんと寄り添ってたらマジで名作になれていたと思ってるし、映画の時に西なんとかさんが死ぬ気でまともな脚本をつくるか、専門家が徹底して直しまくっていたらわりと本当の名作になっただろうと思えるのが心底残念だし腹が立つのです。 西なんとかさんがその場その場で思いついたことを前後の整合性関係なく(本人はずっと昔からそう考えてたと思い込んで)足していったため異常に散漫になってしまったのはスタジオの中の人からすら言われているので、本当にもったいない。
厄介ホイホイってなんで厄介ホイホイになるのかなぁと考えている。特に答えを出す気はないが、なんかこういわゆる光属性が好きな人ほど反転してお気持ちヤクザになってる感
肯定しなきゃならないという気持ちが、他者/大勢の肯定するものと決定的に齟齬をきたしたときに、自分の肯定性を守ろうとしてしまうのかなと思うだけ思いました。思うだけです。
事前投票行った時、某政党の人が「我々の党を推してくださる声が増えているんです」て言ってて「推すって言葉も軽くなったな」とぼんやり思ったりはした。なんだろう、JKが一般名詞になった時と同じ感じ。いや、構やしないっちゃ構やしないんだが、なんかね。Xの広告でも推す言うてるとこもあるし、なんかこう、な。
政党って「推す」ものか? という疑念を捨てきれないでいる。
任意の対象の言動に共感することを広義の推し活と呼ぶのなら政党を推すって言い方も間違いではないかなと 知らんけど
本来はまあまあ一般的な言葉ではあった気がします。この話における政党の人は「推し」の意味で使ってそうではありますが。
4.前や表立った所に出るように力を加える。 ・(後ろから)力を加えて進ませる。[推・押] 「艪(ろ)を―」(艪を操って舟を進める) ・人や物を、価値がある、適当だとして、用いるようにすすめる。[推] 「田中君を委員に―」
光の読書会をしたが闇の語らいもしたい気持ちがある
たのしそう!
昔から「作品の●●なところは面白かったが××なところはちょっといまいちだった、▲▲してくれたらもっと好きだったのに」といった感じの感想についてありえないくらいキレて暴れる人がおり、なんでまたそこまで……?と長らく疑問だったが どうもその人にとっては作品に関して「こうなってたほうがもっと好みだった」と表明することが作者への最上級の悪意であり罵声だという価値観であるらしいことがわかり、数年ごしに理解できた気がしてちょっと達成感がある。
「お前の作品の設定を使ってIFルートを書いてやるぜ」ってのはどうも最低最悪の罵声のつもりだったらしい。わからんよそんなの。
今この時点で言うのはちょっと卑怯というかかっこ悪い感じがあるけど、『推しの子』ってそんなに最初から面白くはなかったと思ってはいるのだが、どうなんだろう。漫画原作舞台にするよ編から徐々にというよりも、最初の2話くらいからずっと「なんか違うな」って思ってはいた。なんか言い出せなかったけど。 そもそも『かぐや様~』もずっと「なんか違うな」って思ってたから、赤坂アカの漫画は基本肌に合わないのかもしれない。
なので今の最終回へのあれそれも「まぁ……ずっとそうじゃない、この漫画……?」って思っているので、みんなヒートアップしているのがちょっと不思議。
なんとなくゴールデンカムイの終盤にあった雰囲気に似ているなという印象を抱いております。 (これはゴールデンカムイが面白いつまらないというよりは、基本的にはコアな題材の座組のマンガだったのでは?という作品にあまりにも過剰な期待が寄せられてしまったがゆえに終盤に起きたあれそれの話
大虐殺が行われて大混乱中の王宮から、生き延びた人々を率いて逃げ出した主人公が、森の中で獣や反乱軍と戦いながら食べ物を見つけ命を繋いで、手傷を負い満身創痍ながらも信頼関係を築きながらついに森を抜けた…!目的地だ!って描写展開で、辿り着いた到着地点が最初にいた王宮だとは普通思わないじゃんね。 特に迷って戻って来ちゃったわけでもないし他に行く当てがなくて諦めたわけでもなく、まだ虐殺と混乱中だと明確にわかる王宮にノコノコ戻っていって普通に全員捕まるの、ギャグか何か?と思ったけどなんかそのままシリアスに続いた。なんなんだ。
なおここまで文庫本で6ページくらい。マジで意味がわからず、え、怪我と脅威が多すぎて森の中にはもう居られないから危険を承知で諦めて戻ってきたって描写見逃した?と思って5回くらい読み直したが、何度読んでも「ついに王宮に辿り着いた」って書いてあるし(なんなら逃げ出して一昼夜しか経ってない)、いまだ反乱軍が大ハッスルして犠牲者を探してる状態なのに何も気にせず空き家で休んでて全員捕まる。なんなんだ。
このあと反乱軍の首謀者を叩きのめす方向で盛り上がるので、この森への逃亡がまるまる要らない。信頼できる仲間を作るプロセスではあるがそんなん別に森の中でライオンと戦わなくたって育めるだろ。なんなんだ。
「聖書読んでもアメリカ人は聖人になってないだろ」というのが回ってきたけど、正直聖書読んでも信心深くはなるかもしれないが、聖人にはなれないだろと思ったりはした。
聖書をなんだと思ってるのだろうか?
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pixivからの脱却だと息巻いて作った小説サイト、運営から1年と4ヶ月経った今、12本しかまだあがらず、views数が一番多いので300なんぼという現状について、何も語らないのはどうしてなんだろうかなとはちょっと思ってはいる。
いや、何も悪いことはないんだが、宣伝とかどうしてせんのだろうかとはちょっと思ってる。
昨今のXとか考えると、コンセプトは悪くないはずなのだが。飛ばし課金以外は。
ちゃんと作ったんだからもっと宣伝してもいいとは思いますね。
課金システムを自分で作れないので飛ばし課金にしますみたいなクソ理論以外は何も問題ないので宣伝していいと思うんですけどね、ほんと。
福田雄一作品わりと好きなんだけどTwitterだと書きづらくない?
10年前にムロツヨシ総受けアンソロジー(R-18)あったんだけど総受けといいつつ大半の作品の攻めが福田雄一、残りは小泉孝太郎だった話とTwitterだとしづらいけどこの面白さを書きたい場所はTwitter
1作だけ長期連載かつ売れてしまい、終わらせも出来ないと人間は少し傲慢になるのかもしれない。
て思ったけど、尾田せんせくらいになってしまうともう戯言ほざいてる暇とかないんだろうから、その辺は関係ないのかもしれん。
はじめの一歩、もう真面目に描いてるようには見えないしな。
なんとなくつぶやいてからいま何やってんだろと思って西なんとかさんを調べに行ったら
あれから新しい絵本は一つも出さずに(依頼して撮らせた短編映画とビジネス書は一冊出ていた)まだプペルを擦っていて、さすがだなと感心してしまった
「異常な書き込みのこだわりで世界を表現する才能」で絵本を売り出したはずなのにいつの間にか発想やアイディアがずば抜けていることにしてるのはマーケティングとしてはすごく正しい気がする
プペ映画の評価で書き込みがすごいに関する評価が西さんではなく制作スタジオへと向けられてたり、雰囲気としては総合プロデューサーとしてすごいに切り替わっているところを見ると乗り換えが非常に上手いのかもとは思いました。今後はそういう方向性に進んでいくんじゃないかなと。
そういや、所謂「ガンダムパロ(ファースト含む)」って今後生まれていくのだろうかとテレ東の『ウィングマン』を見ながら思ったりしてる。もうネタわかんない世代増えてるというか、作り手のおっさん化と受け手の低年齢化が顕著になると結構ひどくなるのでは。
いや、俺のときもそうだったから関係ないか。
「プペルの背景絵はすごい!プペルはアニメ映画として絵が綺麗!」と言われてもやもやしていたが、トラペジウムおじさんとして胸を張って「トラペジウムとかガルパン最終章の方がすげぇわ、何考えてんの?」と言えるようになって、少しほっとしている。
プペルは初出の時のテーマにちゃんと寄り添ってたらマジで名作になれていたと思ってるし、映画の時に西なんとかさんが死ぬ気でまともな脚本をつくるか、専門家が徹底して直しまくっていたらわりと本当の名作になっただろうと思えるのが心底残念だし腹が立つのです。
西なんとかさんがその場その場で思いついたことを前後の整合性関係なく(本人はずっと昔からそう考えてたと思い込んで)足していったため異常に散漫になってしまったのはスタジオの中の人からすら言われているので、本当にもったいない。
厄介ホイホイってなんで厄介ホイホイになるのかなぁと考えている。特に答えを出す気はないが、なんかこういわゆる光属性が好きな人ほど反転してお気持ちヤクザになってる感
肯定しなきゃならないという気持ちが、他者/大勢の肯定するものと決定的に齟齬をきたしたときに、自分の肯定性を守ろうとしてしまうのかなと思うだけ思いました。思うだけです。
事前投票行った時、某政党の人が「我々の党を推してくださる声が増えているんです」て言ってて「推すって言葉も軽くなったな」とぼんやり思ったりはした。なんだろう、JKが一般名詞になった時と同じ感じ。いや、構やしないっちゃ構やしないんだが、なんかね。Xの広告でも推す言うてるとこもあるし、なんかこう、な。
政党って「推す」ものか?
という疑念を捨てきれないでいる。
任意の対象の言動に共感することを広義の推し活と呼ぶのなら政党を推すって言い方も間違いではないかなと
知らんけど
本来はまあまあ一般的な言葉ではあった気がします。この話における政党の人は「推し」の意味で使ってそうではありますが。
4.前や表立った所に出るように力を加える。
・(後ろから)力を加えて進ませる。[推・押]
「艪(ろ)を―」(艪を操って舟を進める)
・人や物を、価値がある、適当だとして、用いるようにすすめる。[推]
「田中君を委員に―」
光の読書会をしたが闇の語らいもしたい気持ちがある
たのしそう!
昔から「作品の●●なところは面白かったが××なところはちょっといまいちだった、▲▲してくれたらもっと好きだったのに」といった感じの感想についてありえないくらいキレて暴れる人がおり、なんでまたそこまで……?と長らく疑問だったが
どうもその人にとっては作品に関して「こうなってたほうがもっと好みだった」と表明することが作者への最上級の悪意であり罵声だという価値観であるらしいことがわかり、数年ごしに理解できた気がしてちょっと達成感がある。
「お前の作品の設定を使ってIFルートを書いてやるぜ」ってのはどうも最低最悪の罵声のつもりだったらしい。わからんよそんなの。
今この時点で言うのはちょっと卑怯というかかっこ悪い感じがあるけど、『推しの子』ってそんなに最初から面白くはなかったと思ってはいるのだが、どうなんだろう。漫画原作舞台にするよ編から徐々にというよりも、最初の2話くらいからずっと「なんか違うな」って思ってはいた。なんか言い出せなかったけど。
そもそも『かぐや様~』もずっと「なんか違うな」って思ってたから、赤坂アカの漫画は基本肌に合わないのかもしれない。
なので今の最終回へのあれそれも「まぁ……ずっとそうじゃない、この漫画……?」って思っているので、みんなヒートアップしているのがちょっと不思議。
なんとなくゴールデンカムイの終盤にあった雰囲気に似ているなという印象を抱いております。
(これはゴールデンカムイが面白いつまらないというよりは、基本的にはコアな題材の座組のマンガだったのでは?という作品にあまりにも過剰な期待が寄せられてしまったがゆえに終盤に起きたあれそれの話
大虐殺が行われて大混乱中の王宮から、生き延びた人々を率いて逃げ出した主人公が、森の中で獣や反乱軍と戦いながら食べ物を見つけ命を繋いで、手傷を負い満身創痍ながらも信頼関係を築きながらついに森を抜けた…!目的地だ!って描写展開で、辿り着いた到着地点が最初にいた王宮だとは普通思わないじゃんね。
特に迷って戻って来ちゃったわけでもないし他に行く当てがなくて諦めたわけでもなく、まだ虐殺と混乱中だと明確にわかる王宮にノコノコ戻っていって普通に全員捕まるの、ギャグか何か?と思ったけどなんかそのままシリアスに続いた。なんなんだ。
なおここまで文庫本で6ページくらい。マジで意味がわからず、え、怪我と脅威が多すぎて森の中にはもう居られないから危険を承知で諦めて戻ってきたって描写見逃した?と思って5回くらい読み直したが、何度読んでも「ついに王宮に辿り着いた」って書いてあるし(なんなら逃げ出して一昼夜しか経ってない)、いまだ反乱軍が大ハッスルして犠牲者を探してる状態なのに何も気にせず空き家で休んでて全員捕まる。なんなんだ。
このあと反乱軍の首謀者を叩きのめす方向で盛り上がるので、この森への逃亡がまるまる要らない。信頼できる仲間を作るプロセスではあるがそんなん別に森の中でライオンと戦わなくたって育めるだろ。なんなんだ。
「聖書読んでもアメリカ人は聖人になってないだろ」というのが回ってきたけど、正直聖書読んでも信心深くはなるかもしれないが、聖人にはなれないだろと思ったりはした。
聖書をなんだと思ってるのだろうか?