ミュンヘンで世話になったブルガリア人は『マケドニアはブルガリアだ』と断言していた。マケドニアの首都スコピエでアルバニアの民族帽子を被っていた知人は、現知人から『それをかぶるな』と言われた。
マケドニアでアルバニアの帽子をかぶるとマズイんだろう。何しろ、アルバニアは、血族間のかたき討ちの風習が依然として残っているらしい。マケドニア人とブルガリア人は、同文同種であったものの、ブルガリア人はマケドニア語をブルガリア語の方言としてしかとらえない。一方で、マケドニア語は独自の文法と文学を完成したらしいが、日本語とハングル語の違いと比べてどうなのであろうか。分からない。
マケドニアは実は、アレクサンダー大王とは人種が異なり、スラブ人。ビザンチン帝国の影響を受けて、中世にはかなり高い文化を育て、9世紀にはキリル文字をギリシャ文字から考案したとあった。ちょうど、日本が漢字から仮名文字を考案した時代だ。
そこから1,100年の歴史で、ブルガリアに100年、トルコに500年支配されて20世紀を迎える。
バルカン戦争の後、セルビア王国に編入されるが、南部はギリシア、東の一部は、ブルガリア領に組み込まれた。
第二次世界大戦が始まるまでは大セルビア主義の犠牲となったが、大セルビア主義とクロアチア民族主義と言うのが、バルカン半島には、存在して、ワケワカメ。
第二次世界大戦では、ブルガリアがマケドニアを解放したものの、その支配がセルビア支配より過酷だったので、パルチザンが誕生し、チトーの解放軍と協力し、ユーゴスラヴィア全土が解放されると、連邦共和国となったという歴史。
おそらくだが、自分達はトルコ支配に反旗をひるがえして、独立を勝ち取り、さらにブルガリアを追い出したという自負がマケドニア人にはあるのであろう。一方、ブルガリアの人口統計では、マケドニア人と言うのが存在せず、これをマケドニアは統計ジェノサイドと非難するとか。
マケドニア民族の存在を否定するブルガリアの立場に異議を挟まないのと、アドリア海へのアクセスを求めるソ連の立場に脅威を感じたユーゴスラビアが、この問題に神経質だったのは分かる。
ロシアとルーマニアの間のモルダヴィ地方の併合問題にも似ているか。
一方、コソヴォは、セルビア軍がかつてトルコ軍に滅ぼされた屈辱の地である一方、アルバニア人が人口の大部分を占めたという怪奇な運命の土地。セルヴィアはコソヴォを手放すわけにはいかないが、人口の対部分を占めるアルバニア人には、アルバニア語の使用等で配慮。
一方、ボッジャ第一書記のアルバニアは、独自の道を歩み、殆ど鎖国主義。
話は、ハンガリーに飛ぶが、ハンガリーはアジア人種に近く、ハンガリー語も西シベリアが源流とか。オーストリア・ハンガリー王国の地だったトランシルヴァニア地方がルーマニアから第二次世界大戦で一度は、取り返したものが第二次世界大戦後にまた奪われている。したがって、ハンガリー国外に住むハンガリー人は、多い。国境線の変更と言えば、ポーランドも第二次世界大戦後、東部と西部の国境が変わり、これに伴う、民族の大混乱と、ポーランド国内に残されたドイツ人の問題も存在したと初めて知った。
ルーマニアは、ナチスを自分達で追い出して、ソ連の力添えをしたとの自負があり、また、豊富な天然資源と工業化の進展で、自由化が早く進んで、チャウチェスクがあんなふうな最期を遂げたのかもしれない。ルーマニアの名前からも分かるようにダキア人がローマ人に征服されてできた国で、民族大移動の通路に当たりながら、トルコの圧政の元でもヨーロッパ文化を守ってきたとの自負があるらしい。こういう感覚は、日本人には分かりづらいと思う。
チェコスロヴァキアは、一つのまとまりだと思っていたが、スロヴァキアは、上部ハンガリーと1000年言われた過去しか有せず、1918年にオーストリアハンガリー帝国が崩壊して、初めて、登場しており、ハンガリー貴族の搾取により、チェコに比べ、工業化が遅れたとあった。
まだまだ初めて知ったことはあるが、このような複雑な民族と宗教が入り乱れる国を共産主義の名のもとに縛っていたソ連も、とどのつまりは原油や電力の安値での供給で繋ぎとめただけで、資源の切れ目が縁の切れ目になって現代にいたるのではないか。
「東欧遍歴 もうひとつのヨーロッパ」 佐久間穆 著 と言う70年後半に書かれた本であるが、この時に、コソヴォ紛争やチトー亡き後の懸念が書かれていた。
ザっと読んだだけなのと、この地域の歴史に疎いので誤りがあったら、ご指摘願いたい。
内容はほぼ問題ないと思う。
についてちょっと補足しておく。
モルダビア地方というのはルーマニア北東部のモルドバ地方と現在のモルドバ共和国とほぼ同一のベッサラビア地方を合わせた地域を指す模様。
ソ連とルーマニアで領有権を争ったのはベッサラビア地方で、その結果ソ連解体に伴いモルドバ共和国が独立した。モルドバ人(除くマイノリティー)は自らの言語をルーマニア語とみなし、人種的にもルーマニア人と同系という意識がある。このため独立後の一時期はルーマニアへの統合という動きがあったが、いつの間にか沈静化している。理由としてはルーマニアの一部になっても所詮後進地域と差別化されるだけでたいしてうまみはないという政治的な要因が大きいと思う。総合されればEUからの補助金が得られるし西側への出稼ぎがし易くなるという利点はあるのだが。
この状況は第二次大戦直後にアルバニアがティトーよりユーゴスラビア連邦への参画を提案されたが、断って独立を選択した背景にやや似ていると思う。
ルーマニアのモルドバ地方にもチャンゴ―と呼ばれるハンガリー系の少数民族が住んでいる。本国のハンガリー人にとってはトランシルバニア地方のハンガリー人と同様かそれ以上に郷愁を感じるらしく、ブダペストでチャンゴ―民謡のコンサートに何回か行った事がある。
チェックありがとう。
ハンガリーは、東欧諸国の中では人種的、言語的に異質であり、その為かどうか知らないが、ルーマニアとはドナウを挟み、歴史的に敵対してきたと初めて知った。また、ハンガリー語は、インド・ヨーロッパ語に属さないので、商店の看板等の類推も難しいらしい。是非、行ってみたくなった。
ハンガリーは、オーストリアハンガリー帝国時代のハンガリーの領域から3割になっているそうで、トランシルヴァ地方にも70年代で170万人が取り残されているらしい。(ほかにドイツ人が40万人と言うのも驚く。)
観光番組で東欧を取り上げると、民族舞踊が定番となっている感があるが、民族舞踊がその民族のアイデンティティの重要な部分を占めているのだろう。
ベオグラードのカレメグダンの丘では、日曜日に軍服姿の兵士が、それぞれの共和国の踊りの輪に加わって、ジプシーの楽師のもと踊るとの記述があった。これは、是非見てみたい。
メキシコシティでは、いまだにアステカ帝国時代の踊りを市街の中心部で力強く、夜間に踊っているのを見て、圧倒された記憶があるが、それが複数あるのかと思うと、どんな感じなのだろうか。
アルバニアには、イスラム教、ギリシア正教、キリスト教と色々な宗教が入り乱れているらしいが、世界で初めて無宗教国家を宣言したというのは面白い。民族の地の結束がより重要だということなのであろうが、ひょっとしたら家族制度を基本とする日本に近いかもしれない。アルバニア人が夫婦別姓があるのかどうか、聞いてみたくなった。
モルドバ人と言う名は、ロシアの主張で、ルーマニアは、この地方の370万人の65%がルーマニア人と主張していたらしい。チャウチェスク大統領は、ソ連からの経済援助を引き出すために、領土問題は存在しない、と言っていたが、現在は、ロシアに対して、どのような立場なのだろうか。
ところで、ロシアと言うのは、西方進出が上手く行かなくて、中国の沿海州や樺太等、東方に進出してきたという歴史がある。ウクライナに進出しているということは、かつて、日ソ不可侵条約を結んだように、当分は、東は中国や北朝鮮とおとなしくやっていこうということだと思う。だから、ウクライナ戦争が終われば、急に態度を変えるであろうし、中国や北朝鮮もそれは、織り込み済みだろう。
ハンガリー語は驚くほど日本語に似ていると書いてあるガイドブックがあったが、文章で近いのは塩気が足りない事を『ショータラン』と言う位。一方で単語の同音異義語はたくさんある。ビンボー(蕾)、キーライ(王様)、バカ(軍隊の階級の一つ)、ウソダ(プール)、カキ(ウンチ)、ウンチ(甥っ子)、下ネタ系もあるが割愛、など枚挙にいとまがない。
トランシルバニア地方でハンガリー系セーケイ人が多く住んでいるのは本国から遠く東に離れたモルドバに近いセーケイランドという谷沿いの地。辺境地域の警備に配された模様で、同様の理由でドイツ系のザクセン人は南部のブラショフやシビウ近辺に多かった。チャウシェスク時代にドイツから金をとってザクセン人を帰国させた経緯もあり、現在ザクセン人の数は5万人程度だと思う。
モルドバはロシアの傀儡政権が支配しロシア軍も駐留する沿ドニエストル共和国との対峙という問題を抱えている。一時期ウクライナ南部を攻撃するロシア軍がオデッサから沿ドニエストルまで抜く回廊を確保するのではという見方があった。昨日のモルドバ大統領選挙ではロシアの大規模介入にも関わらず、EU加盟を目指す現職サンドゥ氏が勝利したとの事。
カレメグダン公園の踊りの件はユーゴスラビア解体前の話だろう。解体前に行った事があるが見なかった。サイコロを使ったペテン師にはめられて巻き上げられそうになったところを地元民に助けられた覚えがある。
カレメグダン公園の踊りの件は、読んだ本が70年代後半なのでその通り。現在は、どうなっているのか。ちなみにペテン師はジプシーだったか?東欧では、ジプシーが多いとの記述があった。74年のイギリスの民俗学教会の発表によると
ポーランド80万、ユーゴスラヴィア30万、チェコスロヴァキア22万6500、ルーマニア20万、ハンガリー20万、ブルガリア20万で、東欧全体だと192万人とのこと。チェコスロヴァキアの東部、ルーマニアのトランシルヴァニア地方、マケドニア共和国、ハンガリーのバラニヤ地方に多いとのこと。土地勘がないので、これがどういう意味を示しているのかは、分からないが、ポーランドは、公式には、77年に1万2千と発表しているので、社会を乱す要因と政府は捉えているのであろうか。
初めてのイタリア旅行で、レオナルドダヴィンチ空港からのバスをテルミナ駅で降りた直後、複数のジプシーの子供が手を伸ばして洋服に近づいてきたので、手に持っていた段ボールの筒で思いっきり叩いたら、ものすごい音がして駅のホールに響き、一瞬、周りがシーンとなったことがあった。フォロ・ロマーノの横を歩いていた時も、女の二人組のジプシーが近くにきて財布を狙ってきたので、思いっきり殴ってやろうとしたら、向こうも引っ掻き返そうとポーズを取り、にらみ合いになったことがあった。
その後、イタリアではサッカーワールドカップがあり、ジプシーは一掃されたと聞いたがどうなのであろうか。
前回、イタリアに行った時には、ローマはテルミニ駅で乗り換えただけだったので、街中には出ていないが、ナポリやシチリア島、そして、フィレンツェ、ミラノ等では遭遇しなかった。
東欧でも憲章77とか、人権抑圧に対する反対の声や、ジプシーに文化的な生活を送らそうという考えもあるようだが、かなり根気のいる、そしてリスクの高い仕事である。ルーマニアが1866年まではジプシーを奴隷として扱っていたとか、ナチスが数十万人のジプシーをガス室送りにしたというのも、ヨーロッパあるあるだと思わざるを得ない。とにかく彼らと街中で遭遇したら、野良犬に対するような態度で接するようにせざるを得ない。
トランシルヴァ地方の話は、興味深い。今回、本を読んだのと、投稿を読んで、俄然、マケドニアやアルバニア、コソヴォやトランシルバニア地方に行ってみたいと思うようになった。
昔、ニュージーランドで1週間がかりくらいのトラッキングに参加した時、ハンガリー人がいて、ハンガリーは、大戦に負けておかしくなったのではなく、大戦が(確か第一次世界大戦)終わった後に、共産主義者が出て来て、国がおかしくなったと、嘆いていたのを覚えている。また、ハンガリーは素晴らしい国だから、是非来てくれと、みんなに宣伝しており、それは、オーストリアハンガリー帝国の時代に比べ、世界の中の地位が下がり、相手にされなくなっている寂しさの裏返しなのだろうと感じた。ちなみに、日本人は、1回目のトレッキングでは、私の他に新婚夫婦の2人組がいた。2回目は、私一人。
3回目に、2日かけてマウントクックの雪原を歩きまわるツアーも行ったが、日本人は私一人だった。
中国も民族構成がそれなりに複雑だが、バルカン半島から中東にかけては、地続きで東西の通り道なので、その比ではないと分かった。ただ、バルカン半島は、宗教よりも民族対立、中東は、宗教対立とのイメージが強く、後者の方が、妥協点を見つけるのが難しいと思う。
これはどこの話だか忘れたが、ミサの前に食べるパン屑をワインに浸けてから口にするか、口にしてからワインに浸けるかの儀式の違いで、宗派同士で戦争が何十年も続いたりしたこともあるらしい。
一方、バルカン半島では、ハンガリー動乱、プラハの春、コソヴォ紛争のようなこともあるが、曲がりなりにも共産主義とソ連の圧力と経済援助のもと、民族間の対立も一定の妥協がなされたと言えるのではないか。第二次世界大戦の終結からソ連崩壊までの40年以上は、中東戦争のような大規模な戦火を交えることがなかったのだから。
ハンガリーは来年のシルクロード旅の最終目的地で、その後ブダペストに永住する予定。落ち着いたら遊びにおいで。ハンガリーに初めて訪れたのは社会主義の雰囲気が色濃く残る90年夏で、暑くて埃っぽいしトラバントやラダがまき散らす排煙でゼホゼホで旅行者へのサービスレベルは低いしもう二度と来たくないと思った。その頃とはだいぶ変わったけど、当時のまんまのエリアもまだ残っている。以前とあるハンガリーに関するZOOM討論会で「この写真に写っているのはジプシーです」と発表したら、北大でハンガリーを研究している先生にポリティカルコレクトネスに考慮しなさいと怒られてしまった。
旧共産圏では全体主義という枠組みの元で民族間、宗教間の対立は抑圧されていた。クロアチア出身のティトーが70年代にクロアチア民族主義者を弾圧したので、クロアチアでは彼の話はタブーになっている。かつてマケドニアで民泊したらティトーの写真が部屋に飾られていたのにはちょっと驚いた。
冷戦時から燻っていたナゴルノカラバフ紛争が昨年秋に突然終結してしまったのは以外というか、アルメニア側から行けなくなってしまい残念。代わりにアゼルバイジャンの飛び地のナヒチェバンに行こうかと思っている。