1960東大理化卒同期生

え!! 毎週 ダンス の 大橋さん !!

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時間とは 凄いですね。 60年前の 大橋さんの 太い 茶色の 長い ステッキは 消えた。
良かったですね。

ashika
作成: 2018/02/22 (木) 13:30:07
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YO 2018/02/23 (金) 16:41:53

 ちょっと真面目なオチをつけますね。ちょうどいいこの機会に皆様のお力をお借りできたらありがたいので。
 S30年7月に高熱がでて、風邪かと思っているうちにすぐ下がりました。しかし、思いがけず左足が上がらなくなっていました。当時このような状態はすべてポリオと診断され、温泉病院に入院して治療を受けましたが、全く改善されなかったので、翌春、Spitzfussという歩き方を袴で隠し、杖をついたまま復学して31SII6のクラスに入れていただきました。(ashika様をはじめ、化学科進学者は4人)ところが、急によくなって、一か月ほどで歩けるようになりました。すると、整形外科のお医者様は「小児麻痺ではありませんでした」と宣いました。
 し・か・し・その秋、駒場の裏門を出て、当時は信号すらなかった現在の首都高の大きな道を松濤側に渡ろうとして、真ん中で一旦立ち止まると次の足が出なくなっていました。最初に発病した時よりその時の方がショックが大きかったことを覚えています。諦めたのに一か月ほどでまた治り、化学科の2年間には一度も発症しなかったと思います。しかし、その後も再発と治癒を数回繰り返して、最後は’66年富士山に登って、砂走りを降りる途中で左足ブラブラ・・・
その後は50年以上何ともありません。 小児麻痺でなかったことは明らかです。現在ならば何か尤もらしい病名がついたかもしれません。 
 悪運の強さはもっとあります。’96年、微かな音、たとえば自分で机にそっと鉛筆をおいただけでも音以上に強い痛みとして感じられるようになったため検査を受け、左前頭葉に直径3 cmの髄膜腫が見つかりました。翌週手術のはずでしたが、その病院勤務の同窓生のおかげで、とりあえず経過観察となりました。それからはいつも半年毎の次の検診までのモラトリアムだ思ってきました。でも、何とそのまま現在まで腫瘍とは共存共栄中です。当初、命は長くはないとSII6組のクラス会で悲壮な言葉をはいたので、皆様がとても親切にして下さいました。そのお一人は化学科クラスメートのN様です。  
結果としてこの髄膜腫は良性で、急速に成長した初期に周囲を圧迫した結果音が痛みと錯覚されただけで、脳の可塑性のおかげでその後は何も異常を感じません。その頃は理研フロンティア所属でしたが、糖有機合成の大御所のO先生が脳腫瘍に多量に含まれているシアル酸は貴重だとおっしゃったので、それならばシアル酸の供給で最後の御奉公をできると思ったのですが、間もなくシアル酸は工業レベルで合成できるようになり、たださえ面倒になったヒト由来の試料など必要なくなりました。
 そんな病歴を持つ85才が今、人一倍健康に恵まれています。ただし、2時間踊っても疲れないのは体力があるからではなく、運動神経ゼロのため筋肉の使い方がわからなくて、残念ながら疲れようがないのです。飛鳥IIでダンスのインストラクターをなさっていらっしゃったC様は私にとっては夢のまた夢。
 これからは、もう、直接科学の役に立つことは難しいでしょう。でも、科学者の端くれになるべく国民の税金を消費した者としては、せめて最後に中枢神経系の病気の研究に被験者として少しでもお役に立てたら嬉しく存じます。理IIのクラスメートには医学者がたくさんいらっしゃったのですが、研究機関からはリタイアされています。どなたかそんな研究をされていらっしゃる現役のご友人をご存知ありませんか?

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昔の頃の事 知りませんでしたが、ご苦労されましたね。 でも富士山に登る等 基本的にはスポ-ツ 好きなんですね。 そうだ 今日は 富士山の日ですよ (2月23日 ふ(2) じ(2) さん(3))
被験者など 言はないで 週 1 ダンスで 十分。 お元気に。

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KYoshihara 2018/03/01 (木) 16:05:32 93a7b@be06e

お身体のこと初めて詳しく知りました。随分と大変だったのですね。また、人間の身体のことは分かっていないことが殆どですね、
2時間もダンスができるのは凄い!の一言です。私は普通のことでもすぐ疲れてしまいます。昼寝などしてしまいます。YOさんは何か滋養強壮剤を摂っておられるのでしょうか。