IJN Sendai

Last-modified: 2024-03-16 (土) 18:09:39

日本 RankIV 軽巡洋艦 Sendai /川内型軽巡洋艦 川内

sendai.jpg

概要

5500トン型軽巡洋艦の最終グループ、川内型のネームシップ。
一つ前の球磨型と比べると、対空機銃が追加され魚雷が強力になった。

艦艇情報(v1.**)

必要経費

必要研究値(RP)10000
艦艇購入費(SL)310000
乗員訓練費(SL)***
エキスパート化(SL)***
エース化(GE)***
エース化無料(RP)***
バックアップ(GE)***
護符(GE)***

BR・報酬・修理

項目【AB/RB】
(初期⇒全改修完了後)
バトルレーティング5.0 / 5.0
RP倍率1.78
SL倍率1.5 / ***
最大修理費(SL)3400⇒*** / ***⇒***

艦艇性能

項目数値
【AB/RB】(初期⇒全改修完了後)
シタデル装甲
(前/側/甲板)(mm)
0 / 25.4+38.1 / 29
主砲塔装甲
(前/側/後)(mm)
20 / 20 / 0
船体鋼, 25 mm
上部構造物鋼, 13 mm
排水量(t)7180
最高速度(km/h)56⇒*** / ***⇒***
乗員数(人)450

武装

種類名称砲塔搭載基数弾薬数購入費用(SL)
主砲140 mm/50
3rd Year Type
単装71400***
副砲25 mm/60
Type 96
連装26000***
対空砲13.2 mm
Type 93
四連装16000***
7.7 mm
Type 92
単装23000***

弾薬*1

搭載武装解説ページ(弾薬テンプレート置き場)を開く

艦砲

武装名砲弾名弾種弾頭
重量
(kg)
爆薬量
(g)
初速
(m/s)
信管
遅延
(m)
貫徹力(mm)
100 m1000 m2000 m3000 m4000 m5000 m
140 mm/50
3rd Year Type
Type 0 HEHE37.8731508400.435
Type 2 SAPSAP37.929607016595143383535
Type 0 HEHE-DF37.931508500.135
mod.1 SAPSAP37.87221085561129781706254

機銃

武装名ベルト名ベルト内容貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
25 mm/60
Type 96
汎用HEF-T/HEF/
AP-T/HEI
565444373228
APTベルトAP-T/AP-T/
AP-T/HEF
565444373228
HEITベルトHEF-T/HEI
HEI/HEI
565444373228
 
武装名ベルト名ベルト内容貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
13.2 mm
Type 93
規定T/AP/HEI/AP313027242119
 
武装名ベルト名ベルト内容貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
7.7 mm
Type 92
規定AP/T201916131110

追加武装*2

分類名称搭載数費用
(SL)
搭載条件
魚雷Type 8 No.216***-
爆雷投射機Type 958***Bomb Mortar
魚雷
&
爆雷投射機
Type 8 No.216***Bomb Mortar
Type 958


魚雷

名称重量
(kg)
爆薬量(kg)水中最大速度
(km/h)
(初期⇒改修)
射程
(km)
(初期⇒改修)
610 mm
Type 8 No.2
2362380.670⇒5210.00⇒20.00

爆雷

名称重量
(kg)
爆薬量
(kg)
Type 95160100

カモフラージュ

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条件-
説明標準カモフラージュ
△△△
[添付]
条件
説明

研究ツリー

前艦艇Kako
派生艦艇
次艦艇IJN Suzuya
 
 

解説

特徴

--加筆求む--

 

【火力】
主砲はレイアウトがやや変更されているものの、火力は球磨型と同じく片舷14cm砲6門である。
対空火力は25mm連装機銃2基4門に加え、艦橋前方の滑走台跡に13mm4連装機銃が追加されている。

魚雷は533mmから610mmへと大きく強化された。搭載魚雷は旧式の8年式2号魚雷だが、それでも他国の軽巡洋艦に比べれば優秀だ。

 

【防御】
装甲配置は前級の球磨型とほぼ同様である。
機関部舷側の装甲はは内側に25.4mm、外側に38.1mmの均質圧延鋼*3であり、あまり頼れるものではない。また、弾薬庫は44mm装甲甲板があるのみで舷側は全く防御されていない。
注意すべき点として、球磨型では装甲された司令塔が装備されていたものの、川内型では司令塔が廃され装甲も施されていない。

以上のように装甲は決して優秀ではないものの、実戦では思いのほかタフな船である。

 

【機動性】
嚮導艦的な性格の船であることもあり、最高速度はかなり優秀。ABでは未改修でも56km/hを発揮する。旋回については船体が長めのためか駆逐艦などに比べれば遅い。

 

史実

2次大戦当時の最新鋭軽巡洋艦川内型の1番艦にして第一艦隊所属の三水戦旗艦。
八八艦隊計画により建造された川内型は、当初8隻建造予定だった。
しかしながら、ワシントン海軍軍縮条約締結により川内、神通、那珂の3隻で建造が打ち切られた。

漢字にすると読みづらいが「せんだい」と読む。「かわうち」や「かわち」、「こうち」と間違えられやすい。
軽巡の命名規則(河川名)に則って川内川(熊本県を起点に宮崎県を経由し鹿児島県で海にそそぐ川)から命名されている。
河口にある薩摩川内市(平成の大合併まではそのまま川内市だった)に九州電力川内原子力発電所がある為、とくに九州内では最近よく耳にする地名だったりする。なお、昔は読みの通り「千台」と書いたが江戸期に「川内」の表記になった。その歴史は古く神話時代に遡るという。

三菱造船長崎造船所にて1922年(大正11年)2月16日に起工、1923年(大正12年)10月30日に進水。1924年(大正13年)4月29日に就役。
就役後は揚子江などの警備任務に付き、開戦直前の1941年11月20日に三水戦(司令官:橋本信太郎少将)の旗艦となった。

歴代艦長には、名だたる人物が多数いたりする。

十一代岸本 鹿子治大佐酸素魚雷、甲標的を開発。岳父は豊辺新作陸軍中将。
十九代木村 進大佐最後の海軍航海学校長
二十代伊崎 俊二大佐第二水雷戦隊司令官でコロンバンガラで神通と運命を共にした。
二十三代森下 信衛大佐榛名、大和の艦長を務め、天一号作戦で第二艦隊参謀長。数少ない大和沈没時の生存者。日本海軍屈指の操艦の名手。

5,500t型軽巡は瓜二つな外見と性能だが、川内型だけは煙突が一本多い4本なので見分けやすい。
その川内型でも、川内だけ艦首形状が違ったり*4改装で一番煙突が短くなってたり*5艦橋が低くなってたり等々するので見分けやすい。

煙突が多いのは他の5,500t型軽巡と機関が違い混焼缶が増えており*6排気能力がより必要だったから。重油消費量増大を見越し、石炭使用の割合を増やしている。
先述の「一つだけ長い一番煙突」は煤汚れ等煤煙の多い混焼缶の排気を担当する為である。なお川内型を含む全ての5,500t型軽巡は、開戦までに全ての缶が重油専焼缶に改められている。
また海外艦等他の四本煙突艦との違いは「四本の煙突形状が一つ一つ違う」事*7。特に分かり易いのは先述の一番煙突と太い三番煙突*8。二番と四番は一見同型に見えるが微妙に異なる形状をしている。

先述の通り一番煙突を改修で切り詰め煙突の高さを揃えた。これは友鶴事件や第四艦隊事件が理由の「復元性改善の為」と一般的には言われている。全ての缶が専焼缶になった為煤煙の心配をする必要が無くなった事もあるのだろう。
ただ、それまでの5,500t型で採用されていた小型専焼缶を無くし*9専焼缶を全て大型缶にしていた事や鬼怒に採用されていた蒸気過熱機が付いている事もあってか、軸馬力出力は5,500t型軽巡の中でもトップクラスで、球磨型が大体九万~九万一千馬力、長良型が九万二千~九万五千馬力なのに対し川内型は九万五千~九万七千馬力の出力が出せた*10
なお、川内型のスペック上の最高速度は35.3ktだが川内だけは公試で36.2ktを記録した(軸馬力出力も川内型の中で最高値の97000馬力をマーク)。

実は、川内型の中で川内だけは四連装魚雷発射管を装備していなかった。
比べてみると川内は連装を4基、神通、那珂は4連装2基で一度の発射数自体は変わらないが、酸素魚雷未対応*11の点で劣る。

◆艦暦

川内の艦暦として特筆すべきは、参加したほぼすべての海戦が夜戦であり、最期の戦いも夜戦だったことだろう。以下時系列順に記す。

1937年の第二次上海事変における中国国民党軍機空襲*12の際、巡洋艦「出雲」*13と共に搭載水上機を発進させ迎撃*14、高角砲で応戦するなどして3機を撃墜し、敵機を撃退しており、搭載水上機による航空戦を行った珍しい艦でもある。

北部仏印進駐の際には第一護衛隊旗艦として現地で直接上陸部隊援護の任にあたったのだが、現地陸軍部隊は大本営の平和進駐の意向を無視して強行上陸を開始。
第二遣支艦隊司令部(旗艦「鳥海」)は陸軍部隊の勝手な行動にマジギレ。「川内」に対して陸軍と談判し、聞き入れない様ならすぐに援護を打ち切って帰るよう厳命した。困り果てた「川内」側は徹夜で陸軍を説得したが聞き入れられず、上陸を開始した陸軍部隊を放置し、目印の澪標だけ立てると部隊を率いて帰投した。
一応護衛の引継ぎを空母「飛龍」の航空隊が行ってはいるが、これが世に言う「陸軍置き去り事件」である。陸海軍間の意思疎通はここに完全に破綻したのだった。

太平洋戦争開戦時は第三水雷戦隊旗艦を務め、小沢治三郎中将率いる馬来部隊(マレー部隊)に所属。マレー侵攻作戦の支援を行っていた。
開戦時日本海軍には6つの水雷戦隊があったが、第三水雷戦隊だけある特徴があった。所属する駆逐艦が全て『特型駆逐艦*15』なのである。太平洋戦争全期間を見てもこういった事例は珍しい。

1941年12月10日に起こったマレー沖海戦に際しては、英国東洋艦隊に対して夜戦を挑もうとしている。
戦艦プリンス・オブ・ウェールズおよびレパルスら英国東洋艦隊が出撃しているとの潜水艦からの報告を受けて、「金剛・榛名を至急参加させて一大海戦を決行するから三水戦は本隊に合流すべし」との小沢長官の指示に対し、三水戦司令官橋本少将は当然従うつもりでいた。
ところが川内艦長の島崎大佐は「このままにては昼間に敵艦隊と遭遇し、砲戦となる公算大にして勝算覚束なし。仮に脱出し得たとしてもタイランド湾奥深く数十隻の我が輸送船があり、これらが全滅の憂き目を見ること必定なり。ここは我が水雷戦隊を挙げて全速にて敵艦隊を襲撃、未明までに夜間水雷戦を以て敵を撃滅する外に方策なし」と司令官と参謀を相手に強硬に主張。普通は当然艦長が折れるはずが、大激論の末なんと島崎艦長は司令官側を丸め込み、夜襲決行を決断させた。なんともまあ、恐るべき夜戦への執念であった。
駆逐艦への燃料補給ももどかしく、川内は長官に「ワレ突撃ス」との簡単極まりない報告を打電するや、駆逐隊を率い全速で敵艦隊へ向かっていった。
しかし2時間ほど突っ走ったところで潜水艦から敵艦隊変針の報告を受け、襲撃は残念ながら中止と相成った。
その後、英東洋艦隊は航空部隊の攻撃により全滅したのは周知のとおりである。

また、同海戦では「綾波」ら第十九駆逐隊(駆潜艇も含)と共に敵潜水艦を撃沈している。この時の初撃は哨戒に当たっていた「川内」搭載の九四式水偵の爆撃だったりする。
ちなみに輸送船団護衛の最中の出来事だったので「川内」の行動は水偵での索敵と爆撃のみで第十九駆逐隊に爆雷攻撃を任せて*16その後は船団の護衛に戻っている*17

1942年1月27日未明、エンドウ沖で輸送船団を護衛中に英駆逐艦「サネット」、豪駆逐艦「バンパイア」の襲撃を受ける(エンドウ沖海戦)。
三水戦所属の「白雪」が探照灯を照射しつつ砲撃を行い「バンパイア」を撃退するものの煙幕を焚かれて逃げられてしまう。しかし逃げ遅れた「サネット」を「川内」と三水戦の駆逐隊(「白雪」、「吹雪」、「初雪」、「夕霧」、「天霧」、「朝霧」)で砲撃によって撃沈し戦果を上げ*18、ここから夜戦伝説が始まった。

同年2月12日には「由良」が三水戦の指揮下に入り、13日以降「由良」と共にシンガポールから脱出する艦船を攻撃しバンカ湾北方にて3,000トン級英特設巡洋艦1隻撃沈を報告。この後も三水戦はこの方面で撃沈戦果を上げている。

ガダルカナル島への輸送作戦の方針を巡って、二水戦司令官・田中頼三少将が上級司令部と対立して増援部隊指揮官の任を解かれていた*191942年8月末から11月頭にかけて、「川内」を旗艦とする三水戦司令官・橋本信太郎少将が増援部隊指揮官を務めた。
この際、二水戦所属の第二十四駆逐隊(「海風」・「江風」・「涼風」)が「川内」の直率として参加し、ガダルカナル島への揚陸作業を援護したことがある*20。敵の飛行場があるガダルカナル島への揚陸作戦は、夜に紛れての行動が必須であるため、ここでも夜間作戦に従事し被害を出さず帰還している。

第三次ソロモン海戦第二夜戦では、偵察の為掃討隊として第十九駆逐隊(「浦波」、「敷波」、「綾波」)を率いて前進、針路上にあるサボ島周辺を偵察すべく近づいたところで戦艦「ワシントン」、「サウスダコタ」を擁する米艦隊を発見、「綾波」を除いた3隻で追撃するが、「ワシントン」から40.6cm砲弾の釣瓶撃ちの洗礼を受け、敵が「巡洋艦が転覆した」と錯覚するほどの水煙に包まれたという。
しかしそこは夜戦伝説の「川内」。直撃弾は1発も喰らわず、さらに米艦隊と並走。煙幕を張って距離を取った。ちなみに当時艦長を務めていたのが前述の「操艦の神様」の異名を持つ森下信衛大佐である。
「綾波」が島影で通信を遮られた状況にもかかわらず突入。「川内」率いる3隻が目を引いた後、「綾波」が単独突撃で敵を混乱に陥れた隙に、敵側面に回り込んだ「長良」率いる第十戦隊の雷撃機会を作るという獅子奮迅の激闘を繰り広げた*21

1942年7月9日夕刻、鮫島司令長官が率いる水上部隊(「鳥海」、「川内」、警戒隊「雪風」、「夕暮」、「谷風」、「浜風」)、輸送隊(「皐月」、「三日月」、「松風」、「夕凪」)はブーゲンビル島ブインを出撃、コロンバンガラ島輸送に成功。しかし米艦隊と遭遇せず、水上戦闘は生起しなかった。明けて7月12日、今度は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将:旗艦「神通」)が増援部隊を指揮して輸送作戦を実施したが、同日夜のコロンバンガラ島沖海戦で「神通」が沈没、第二水雷戦隊司令部も全滅した。 これを受けて、第七戦隊司令官西村祥治少将を指揮官とする夜戦部隊が編制され、7月16日夜および18日夜にラバウルを出撃。戦力は、第七戦隊旗艦「熊野」以下主隊「鈴谷」、「鳥海」、水雷戦隊「川内」、「雪風」、「浜風」、「清波」、「夕暮」、輸送隊「三日月」、「水無月」、「松風」であった。7月18日と20日にコロンバンガラ沖で、夜間哨戒機の支援を受けた爆撃機による夜間空襲を受け「雪風」・「浜風」と共に応戦したが、この時も無被弾であった。

1942年11月のブーゲンビル島沖海戦では、最初夜間爆撃を二回受けるが回避し無被弾だった。しかし本戦の夜戦で先頭を走っていた「川内」は、砲雷撃の為回頭し魚雷を撃った*22直後、舵を故障し集中砲火を受けて機関停止*23
さらに射撃指揮所に敵弾が命中し射撃指揮装置が破壊され、砲術長と方位盤射手も重傷を負い、ここに至って戦闘力の大半を喪失してしまった*24
第三缶室への魚雷命中により缶が損傷、しかもなお悪い事に缶の運転に必要な真水を全部喪失していた。
だが艦長達はなおも突撃を諦めなかった。調査の結果第一缶室がどうにか使えることがわかり、「川内」の命と引き替えの覚悟で海水を注入*25、再始動が試みられた。
至急点火により川内は煙突から凄まじい黒煙を吐き始め、息を吹き返すかに見えた。
しかし、応急班の報告により肝心のスクリュー軸が折れていることが判明。ここに「川内」の死が確定したのだった。

戦闘後取り残された「川内」は、先頭にいて米軍に一番近かった事もあり、「妙高」との衝突などで大損害を受け落伍漂流していた「初風」と共に敵艦隊の乱打を浴びた。
無数の敵砲弾が着弾炸裂し続ける中、伊集院松治司令官と荘司喜一郎艦長の最後の訓示と軍艦川内万歳三唱の儀式が厳然と行われたのち、総員離艦となった。
白露型の面々の奮闘の甲斐もあり、「妙高」・「羽黒」・「長波」らの残存艦隊は無事戦場を離脱できた。味方の離脱と乗員の退艦を見届けた「川内」は、運命を共にした荘司艦長らと共に、夜明けのソロモンの海で眠りについた。
「神通」と似た様な状況だが、川内の場合は味方呂号第104潜水艦による救助が実施されたこともあって戦死者は艦長以下185名にとどまり、伊集院司令官以下の司令部要員を含む311名が生還した*26

 
川内型軽巡洋艦
1川内-
2神通?-
3那珂?-

小ネタ

◆士官次室では食器がチャールストンを踊った
  • 川内型軽巡共通の悩みは、速度を上げると艦尾が振動する事だった。ただこれは駆逐艦型の艦尾形状(特に吃水下部)と抵抗に由来する物で実は5,500t型全体の問題であったが、川内型は出力が高いのでより顕著になった*27
    特に艦尾付近にある士官次室では歯の根が合わない程であり、食事時などご飯や味噌汁の椀が生き物みたいにダンスを踊っていたという。これを当時流行っていたチャールストンというハイテンポなダンスに見立てて「やぁ上手い」と手を叩いた吉田俊雄*28は先任上官から「黙って食え」と怒られたそうな。
◆その名を受け継ぐ護衛艦
  • 川内の名は海上自衛隊あぶくま型護衛艦4番艦「せんだい」に受け継がれた。
    就役から20年間、佐世保に配属されていたが、2011年に第16護衛隊が廃止となり、呉の第12護衛隊に転籍、2016年には舞鶴の第14護衛隊に転籍し現在に至る。
    あぶくま型護衛艦は、旧型護衛艦としては珍しく赤外線暗視装置を装備しているが*29、中でも「せんだい」は先代の影響があるのかないのか、自衛艦の中でもダントツで夜間の瀬取り(北朝鮮の違法貿易)現認・検挙回数を誇り、小松基地のF-15墜落事故の際も夜間に緊急出港しパイロットの捜索に向かい、知床遊覧船事故の際はたまたま大湊基地に停泊中で災害派遣が決定、深夜に出港し現場に向かうなど(ウィキペディア等参照)、生まれ変わっても夜戦を得意としているようだ。しかも、人を救うための任務にも多数従事しているというのが泣ける・・・。
    小型艦ゆえに取り回しがよいのか、ここ数年だけでも大阪、佐賀、鹿児島、直江津、下関、船橋など全国各地で体験航海や一般公開を実施しており、地方隊の顔とも呼べる存在である。
    2022年の国際観艦式では祝賀航行部隊第8群の先導艦を務め、外国艦艇を率いた。
    • 同型艦には「じんつう」(神通)もいるが、今回はこちらが2番艦であり先に建造されている。
      あぶくま型は他の艦名も、「あぶくま」(阿武隈)、「おおよど」(大淀)、「とね」(利根)、「ちくま」(筑摩)と、一水戦、三水戦、そして連合艦隊の有名旗艦名が揃っている。
      ちなみに、「せんだい」はKADOKAWAから正式に提供された「川内(艦これ)」等身大パネルを保有しており(乗員談)、一般公開などでよく展示されている。
      本艦には河童をモチーフとしたマスコットキャラが存在するが、名前の由来となった川内川は、河童の伝承が残る場所の1つで、現地で河童は「がらっぱ」と呼ばれ親しまれている。
◆少しでも事情が違えば「川内型」ではなかったかも?
  • 後に川内型と呼ばれる新型の二等巡洋艦は、加古、那珂、川内、神通の順で命名が内令され、艦艇類別等級別表にも記載されていた。つまり、従来の慣例では、川内は3番艦になるはずだったのである。
    しかしながら、加古の建造中止で2番艦となり、那珂の建造の遅れにより、起工順および竣工順では1番艦となる。
    そして1926年(大正15年)11月、海軍はこれまで別れていた艦艇類別等級別表と潜水艦類別等級別表を廃止し、新たな艦艇類別等級別表を通達した。ここで古鷹型、青葉型と川内型は、これまでの慣例とは異なり、竣工順で類別されてしまったのである。
    川内は、このような紆余曲折を経てタイプシップにたどり着いたのである。


外部リンク

 

WarThunder公式英語Wiki

 

公式Devログ

 

DMM公式紹介ページ

 

インターネット百科事典ウィキペディア

 

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*1 爆薬量はTNT換算
*2 爆薬量はTNT換算
*3 史実では構造鋼
*4 実は神通、那珂も初期は川内の様な艦首(スプーン・バウ)だった。しかし、神通は演習で味方と衝突し艦首が吹き飛び修繕、那珂は建造中の災害に依る損傷で一度解体され艦首を新調(ダブルカーブド・バウ)したという経緯がある。いみじくもダブルカーブド・バウ化した5,500t型の3隻(阿武隈・神通・那珂)はどれも事故や災害で破損したのが改装理由なのでむしろ不運の証?
*5 神通のみ一番前の一番煙突が一つだけ長いまま、川内も初期は同じ。
*6 他の5,500t型だと小型専焼缶の有る分が置き換わっている。
*7 海外艦は単純な排気能力向上の為のケースが多いので、生産・運用コストの関係で全く同型の煙突を採用しているケースが多い。
*8 三番煙突は大型の専焼缶2グループ分の排気を担当する為排気能力を高める必要が有り太い。
*9 なお混焼缶は小型缶である、これは他の5,500t型も同じ。
*10 初期の公試計測値、ちなみに多くの資料では安全な定格出力値を記している為5,500t級は九万馬力に表記統一されている。
*11 ただし酸素魚雷用の「酸素充填装置」は積んでいた。酸素魚雷用の発射管に換装する予定はあった。
*12 なおこの時の中国国民党軍爆撃機の練度ははなはだ低く、出雲や川内を狙ったつもりの爆弾はどれも上海租界の避難民のど真ん中に落下。死者1,700人以上を出す大惨事となった。
*13 第三艦隊旗艦…ではあるが、戦艦三笠などと同じく日露戦争に参加した老兵。旗艦がこれなので、割に新型の川内は貴重な主力だったのだ。
*14 この時期の搭載機は九五式水上偵察機。戦闘機代用として空戦も可能な優秀機で、零式水上観測機の先輩格である。
*15 正確には特I型とII型のみ。III型で構成される第六駆逐隊は三水戦の所属経験無し
*16 最終的にO-20は浦波が撃沈する事になる。
*17 昼間も活躍してたんじゃないか、と思うかもしれないが上記の対潜時は主に駆逐艦が働いていた。まあ「川内」は水雷戦隊旗艦と言う立場上、駆逐隊の指揮を取るために考え無しに敵に突っ込んでいくわけにもいかなかったからなのだが。旗艦軽巡だからこそ任せられない仕事も有るのだ。
*18 実は川内型で唯一の撃沈戦果を持っているのは川内1隻のみだったりする
*19 なお、解かれていたのは輸送作戦のために軍隊区分で編成された「増援部隊」の指揮職で、二水戦司令官の職も解かれていた訳ではない。11月には復職している
*20 「増援部隊」は作戦ごとに各艦隊から隊や艦艇が集まって臨時に編成される軍隊区分での組織なので、三水戦が中心の部隊の中に、二水戦の駆逐隊が加わるというようなことはよくある
*21 ちなみに、「味方からしても訳のわからん艦隊行動」(誉め言葉)をしていたことから、後続後続していた「霧島」・「愛宕」・「高雄」らからも敵艦隊と誤認され、射撃寸前になって味方だとわかり慌てて射撃中止。危うく味方に沈められるところでもあった。
*22 余談になるがwikipedia等では川内が攻撃を行っていないかの様に書かれている場合がある。
*23 舵故障の出典はこちら、やこちら
*24 この影響で後続の「五月雨」と「白露」が衝突する事故も起こったが、指揮下の駆逐隊(「時雨」、「白露」、「五月雨」)は雷撃を成功させた。
*25 軍艦の機関は高圧蒸気を用いるため、少しの不純物でも缶やタービンを傷める可能性があり(実際「夕張」はそれが理由の機関故障を起こした事がある)、ただの真水でも不可で蒸留水を用いていた。海水を注入して焚こうものならどうなるか。今後二度と軍艦として前線に立てなくなっても良いという、艦の生命をかなぐり捨てての決断であった。マジで夜戦の鬼である。
*26 また、そのうち51名の乗員は短艇(カッター)を漕ぎ過酷な逃避行を行う事となった。彼らは敵哨戒機による機銃掃射で4人の死者を出しつつも、炎天の200kmを6日間かけて力漕、見事生還を果たした。短艇には23発に及ぶ弾痕が残っていたという。
*27 この問題は阿賀野型建造の際艦尾吃水下部の形状を見直し、扁平で舷側接合部に鋭いナックルを有した船尾底に変更する事で解決した
*28 のち海軍中佐、戦後は海軍作家となる。
*29 自衛艦の中でも独立した赤外線暗視装置を装備するのは、あぶくま型護衛艦、はやぶさ型ミサイル艇と、もがみ型護衛艦だけである