けものフレンズBBS NEO

みんみ教徒の集い / 2783

3592 コメント
views
90 フォロー
2783
流浪のみんみ教徒 2021/04/24 (土) 00:03:03 457e0@3a174

本日は植物学の日であります。
文久2年4月24日(新暦・1862年5月22日)が
植物分類学者の牧野富太郎氏の生誕日である事に因んで、
牧野氏の功績を讃えて制定されました。
命名された植物が1500種類を数える他、野生植物だけでなく野菜等も含めた
身近にある様々な植物であった事から、「日本の植物学の父」と呼ばれております。
また、高知県の高知県立牧野植物園では牧野氏ゆかりの野生植物など
約3000種の植物が栽培されており、また、例年4月24日を「マキノの日」として
独自に制定しており、入園が無料となる他に「植物観察ツアー」や
「特別イベント」等が行われております。
・牧野富太郎氏は文久2年4月24日(新暦・1862年5月22日)に
 土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)にて、
 「佐川の岸屋」と呼ばれた雑貨業と酒造業を営む裕福な家お生まれになり、
 幼少のころから植物に興味を示しておられたと云われております。
 10歳の頃より土居謙護氏の教えられる寺子屋へ通われ、
 11歳の頃に郷校である名教館(めいこうかん)に入られ、
 儒学者の伊藤蘭林氏に師事されました。そこでは漢学だけではなく、
 福沢諭吉氏の「世界国尽」や川本幸民氏の「気海観瀾広義」等を通じて
 西洋流の地理/天文/物理を学ばれました。名教館は学制改革により
 校舎はそのままに佐川小学校となり、そこへ入学されるも2年で中退され、
 趣味である植物採集に没頭される生活を送られました。中退の理由として、
 造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修めて
 学問で身を立てる事は全く考えていなかったからと後に述べられております。
 酒屋は祖母と番頭の方に任され、15歳から佐川小学校の「授業生」
 すなわち臨時教員としておよそ2年間勤務されました。その傍ら、
 植物の採集/写生/観察などの研究を続けられながら、17歳の頃には
 高知師範学校の教師・永沼小一郎氏を通じて欧米の植物学に触れられ、
 当時の著名な学者の知己も得られるようになりました。
 そして、江戸時代の本草学者・小野蘭山の著書「本草網目啓蒙」に出会われ、
 本草学とりわけ植物学に傾倒されるようになりました。
 19歳の頃には第2回内国勧業博覧会の見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、
 番頭の御子息と会計係の2名と共にて初めて上京され、
 そこでは博物局にて最新の植物学の情報収集や植物園の見学も行われました。
 22歳の頃に再び上京され、東京帝国大学理学部植物学教室の
 矢田部良吉教授を訪ねられた他、また同教室にて文献や資料等の使用を
 許可され研究に没頭されました。その時に東アジア植物研究の第一人者の
 ロシアのカール・ヨハン・マキシモヴィッチ氏に標本と図を送られ、
 やがて図を絶賛する返事が届いた事で描画力の高さが証明されております。
 25歳の頃に同教室の大久保三郎氏や田中延次郎氏/染谷徳五郎氏などの方々と
 共同で「植物学雑誌」を創刊されました。この雑誌は日本で最も長い歴史を持ち、
 また最も権威ある植物学誌となっております。26歳の頃には、
 かねてからの構想であった「日本植物志図篇」の自費出版を開始されました。
 これは当時の日本には存在しなかった形式の植物誌で、今でいう植物図鑑の
 はしりであります。この雑誌はマキシモヴィッチ氏からも高く評価されました。
 1889年、27歳の頃に新種の植物を発見され「植物学雑誌」に発表、
 日本ではじめて新種のヤマトグサに学名を付けられました。
 1890年、28歳の頃に東京の小岩にて、分類困難なヤナギ科植物の
 花の標本採集中に柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集され、
 これは世界的に隔離分布するムジナモの日本での新発見となり、
 その事を自身の正式な学術論文によって世界に報告された事で、
 牧野氏は世界的に名を知られるようになりました。しかし同年、
 矢田部教授や松村任三教授などの方々から植物学教室の出入りを禁じられた事で
 研究の道が断たれ、「日本植物志図篇」の刊行も六巻で中断してしまいました。
 そこでマキシモヴィッチ氏を頼る形でロシアでの研究を考られましたが、
 翌年にマキシモヴィッチ氏が逝去された事により実現されませんでした。
 一旦、郷里の高知に戻られ、地元の植物の研究や、西洋音楽会の開催等の
 活動をされておりましたが、知人の方々の助力によって駒場の農科大学
 (現在の東京大学農学部)にて研究を続ける事ができるようになりました。
 31の頃、矢田部教授退任後の帝国大学理科大学の主任教授に就任された
 松村氏に呼び戻される形で助手に就任されました。その後は各地にて
 採集活動など植物の研究を続けられ、多数の標本や著作を残されております。
 1900年からは未完の「日本植物志図篇」に代わって新しく「大日本植物志」を
 帝大からの費用によって出版されましたが、四巻で中断してしまいました。
 1926年には津村順天堂(現在の株式会社ツムラ)の協力によって、
 個人で「植物研究雑誌」創刊されました。一旦は3号で休刊しましたが、
 以降はツムラの協力により編集委員制で現在も刊行されております。
 牧野氏は1912年から1939年まで東京帝国大学理科大学にて講師を務められ、
 1927年4月、65歳で東京帝国大学から理学博士の称号を授与されました。
 1940年に大学を退官された後、研究の集大成となる「牧野日本植物図鑑」を刊行、
 この図鑑は改訂を重ねながら現在も販売されております。
 1950年に日本学士院の会員となられております。
 1951年、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、
 科学研究所所長の朝比奈泰彦氏を中心に「牧野博士標本保存委員会」が組織され、
 文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われました。
 これにより、同年に設立された文化功労者第1回の対象者となられております。
 1953年、91歳で東京都名誉都民となられております。
 1956年、著書「植物学九十年」「牧野富太郎自叙伝」が刊行され、同年12月に、
 郷里の高知県佐川町の名誉町民となられております。
 また同年、高知県に牧野植物園が設立される事が決定されました。
 一方で1954年頃から病で床に伏せられる事が多くなり、
 牧野氏は1957年1月18日に94年の生涯を閉じられました。
 没後、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与されております。
 1958年4月、高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園しております。
ジャパリパークは様々な動物及びフレンズの方々がお住まいの動物園でありますが、
それと同時に様々な植物が存在する自然公園としての側面も併せ持っております。
元々が海底火山の噴火によって出現した島であり、それをそのまま活かす形で
動物園としておりますので手付かずの自然の多くが残されていると思われ、
それが動物及びフレンズの方々にとって暮らしやすい
環境の形成に役立っている事は間違いないと思われます。
現在はカーボンニュートラルに向けて様々な環境保全対策が行われておりますが、
それを達成するためには様々な植物の力を活かす事が重要となります。
植物を守る事は地球を守る事と直結しており、
そのためには日々の取り組みの積み重ねが重要なのであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。

通報 ...
  • 2784
    名無しのフレンズ 2021/04/24 (土) 15:34:03 df5cd@cb22a >> 2783

    政府は温室効果ガスの排出を
    2013年度比で2030年度までに46%減、2050年度までに実質0にすることを掲げましたが、
    産業構造やエネルギーの転換はもちろんのこと、植物を始めとする環境問題も無視出来ません。

    我々にも出来ることがあれば・・・