多様性という名前で、適切な形に収束していく中で、昔の文化・表現そのものが時代遅れだとして見捨てられていくのは哀しいことだと思いませんか?
まったく思わない。
そんな時代もあったなぁ、で終わり。
ローカル便器でしか容認されないクソの投げ合いという思い出作りは十分すぎるほどやったと思うよ。
ちゃんとウンコを鷲掴みにして豪速球で投げられることの証明を行ったうえでこの話をすることに意味があるんだよ。
草野球すらやったことのない奴がバットの振り方について語ってたら滑稽でしかないし、どの口が何を言うかが肝心だろ。
原点回帰させてもらうと、喧嘩はあくまで自由。
どの文化も最初は手取り足取りから始まって、次第に様式化されていく。
自然なことだよ。
このやり方が一番だと思っても、またそれを上回るやり方が出てくる。
ずっとそんなことを繰り返していくうちに文章や表現の定石が出来上がっていく。
格闘技でも構え方はみんな大体同じ。
格闘家がそれまでに積み上げてきた歴史があの形を生み出した。
自由を有効活用することは自由で在り続けることではなく、自由によってより良い価値を規定すること。
法律も数多くの先人が意見を出し合うことで体系化され、時にはその内容を変えたりしてきたわけだけど、喧嘩もそれと同じ。
そろそろ古臭い喧嘩観を更新してもいいのでは。
なごむはこの数年でありえないほど化けてるけど、それはセンパイ方の影響を受けてるからだよね。
今のお前はあのセンパイにそっくりだし、そのスタイルを模倣するということ自体収束に向かってるようなもんじゃない?
なんたって彼の一番の作品は、彼のやってきたことを「すごい」と思っている人たちの価値観を全否定したことでしょう。
俺たちはとっくの昔に置いてけぼりを食らって見捨てられている。
レベル高すぎて反応できねえ奴ばっかだとそりゃつまらんわな。
それ以上の価値ってのを喧嘩界には見出せなくなる。
必然的に優秀な奴らは消えていく。
だから俺はこの環境では優秀なユーザーを最優先に考える。
当然、話についてこられない奴らが今度は排除されていくだろうが、シーンはどんどん小さくなればいいと思ってるし、そうじゃなきゃ界隈の水準は上がらない。
そして今、喧嘩師でありながら喧嘩に喧嘩を売るといういつかのセンパイがやって見せたことを、今度は俺が逃げずに決着をつけてやろうって話だ。
「ーー」じゃなくて「──」。
こんなことは、一般には関係のないことかもしれない。
でも、物書きにとっては、大きな違いだと思う。