水を差すようで悪いけどな。
お前はひとつとんでもない誤解をしている。
一般人が一目見た時にはくそどうでもいいと口を揃えて言うであろう内容に対し、疑義を設けるのである。待ったをかけるのである。
一般人がどうでもよかろうと当事者にはどうでも良くないのである。
「どうでもいい」と思えるってことは、「どうでもいい」と思われるところまで設計されてるんだよ。
たとえば「日本語」。
俺たちは日本語そのものについては基本的に語ったりはしない(意味が通じる限りはどうでもいい)と思ってるけど、それだけ違和感なく完成されてるってことだぞ。
そして今テーマにしてるのはまさしく「喧嘩の在り方」で、これは一般的に「どうでもいい」とは看過されにくい要素であふれてる。
言うなればこれはどこまで妥協しつつ喧嘩の特色を損なわずに実現可能かって話で、俺らはこんな話をしつつもすでにこのやりとりの過程で実施してるんだけど。
ジャッキーのNG集にしても、「演技失敗しててけしからんな」とならないのは、「演技失敗しててもどうでもいい。そこは問題じゃない」と思わせることに成功しとるからやぞ。
iPhoneのフリックに違和感を抱かず「どうでもいい」と思わせてるのだって人間工学的にきちんと人間の感覚とマッチするように設計されてるからだろ?
どうでもいいと意図的に思わせることのすごさは、創作物やデザイン、機能的なもの全般に言えることだからね。
つまり、「喧嘩」であることはどうでもいいと思わせるような喧嘩が普通にできたら、たぶんどこの言論界隈でも通用するし、今までになかった自由を規定できるって話よ。
モノトーンを基調としたwebデザインがあったとしようや。
なんの違和感もない配色。
パッと見でそれが普通と感じる。
何が言いたいかって、すごいと思わせないのがすごいってことよ。
でもその見せ方にはweb業界の奴ならわかると思うけど、そう見えるように考えられて余白が設けられてたりするわけ。
これを文章表現としてできる奴が少なすぎっつー話だぞ。