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「あのぉ………どうして見ているんですか?」 「いけませんか?あなたが剣を振る姿が綺麗だったので見惚れていたのです」 「き、キレイですか。ありがとうございます………」
そう言われると嬉しくなってしまう。同時に少し照れ臭くて頬を掻いてしまった。
「体軸が全くぶれませんね。余程鍛錬を積んできたのでしょう」 「えへへ。剣道は小さい頃からずっとやってきたんです。ちょっとは自信もあります。 この前の大会では優勝したんですよ。それで全国大会に出ることになって、大阪に来てこんなことになっているんですけれど………」 「なるほど。そうだったのですね」
シスターさんは笑顔で私の話を聞いている。 ………相変わらず妙に薄っぺらく感じる表情だ。嘘臭いというわけではないのだけれど。 気を取り直してシスターさんから視線を切り、稽古に戻ろうとしたその時だった。
───あ、面を打たれる。
物心ついた頃から剣を振ってきた身体が先に反応した。 降り落ちてくる剣へ応じて咄嗟に足を捌き、右にステップして面抜き胴を打つ。 避ける動きで敵を斬る。何度も練習して身体に染み付いた、攻防一体の得意技だった。 ………と、身体を動かしてから頭がようやく追いついてきた。 腕に相手を打つ手応えはない。竹刀は何もないところを薙いでいた。 その先ではシスターさんがさっきまでと同じように棒立ちで立っている。 なんで今、私は面を打たれると感じたのだろう。 心がざわざわする。物凄い重圧だった。師範に本気で打ち込まれる時、いやそれ以上。 泰然としているシスターさんへ私は思わず尋ねてしまった。
「ええと………シスターさんって…もしかして、何か武術とかやってたりします………?」
シスターさんはくすりと笑って言った。
「あはー。さて、どうでしょ~?」
………薄々分かってきた。親切なだけの人では、どうやらないらしい。
「綺麗な亜麻色の髪ですねぇ、地毛ですか?」
何か特別な意味合いを込めて言ったわけではなかった。 そもそもクエロの心は壊れてしまったきり元に戻らないガラクタの心だ。 笑顔を作っても心の底から嬉しいわけではない。悲しい顔をしても心の底から悲しいわけではない。 何とか間に合わせの態度を繕っているのが薄気味悪く気持ち悪い、出来損ないの人格。 本当は他人へまともな共感もしていないくせに、さも当然のように人々の中にいる自分をクエロははっきりと嫌っていた。 それでも隙間から溢れるものを拾い集めて自分の感情を見出している。 そんな体たらくだから言葉に複雑な意味合いなど込められようもないのだ。
だから結果としてそれはとても素直な感想だった。 綺麗な髪だと思った。淡い発色の珊瑚のような色をした、艶やかな髪。 年齢相応の瑞々しさに満ちたそれを指に取る。これが義手であるのが惜しかった。 この義手は触感を情報として教えてはくれるが『触感』そのものを伝えはしない。 きっと、心地よい手触りだろうに。
「えっと………そうですね、お母さんがフランス出身なので………」
俯く梓希の声の微熱をクエロは察知できなかった。 そうなのですね、と相槌を打った。櫛を髪へと入れていく。 壊れた心に微かな温もりが宿る。手を止めずにクエロは理由を熟考し、梓希へ構うことに快楽を見出しているらしいと結論付けた。
修練で汗ばんだ身体に熱いシャワーを掛け流す。 直で顔に湯を浴びる度、魂に潤いが戻っていくような感覚が心地良い。 例え風邪を引いていても、擦り傷を負っていようと、一日二回の入浴は欠かさない。 熱い湯に浸かり体の芯が火照っていくことで、日々の喧騒や精神的な歪みを正すことが出来るのだ。 宛ら鉄を熱し、打ち直すように。湯に浸かる度に私の心は堅く、研ぎ澄まされていく。
……にしても。 先程シスターさんが漂わせたあの“気”は、一体どういうことなのだろう。
肩まで湯船に浸かりながら思案を巡らせる。 幾度とない戦いの中で、私は人から発せられる……言うなれば“剣気”のようなものを察することが出来るようになった。 打つ。突く。切る。そう判断した時、無意識に生じる微細な身体の緊張。それが“剣気”と言うべきものだ。 それは向かい合い、相対していて初めて感じ取ることが出来るものだが……あの人のそれは、まるで違った。
…………あの人は、私よりも「戦い」の事を知っている。 始めこそ雇われの聖職者だとばかり思っていたが、背後から飲み込むようなあの“気”は常人のそれではない。 きっとあの人もまた、この大阪で巻き起こっている「異変」に関わりを持つ者の一人────。
────まあ、今はまだ考えていても仕方ないか。 複雑に絡み合う思考をリセットするように顔を洗い、身体の水気を拭いて脱衣所へ戻る。 細かいことはまた明日にでも探し歩い、て…………。
「「…………あっ」」
身体と思考が一瞬硬直する。 目の前に現れたのはシスターさん。脱衣所で洗濯機から洗い物を取り出している最中のシスターさんだ。 思いがけぬ鉢合わせが頭の中を吹き飛ばし、脳内が真っ白に塗りつぶされる。 その直後、脳内のファンは高速回転。先程流したはずの汗が再びこみ上げてくるのも感じ────
「ごごご、ごめんなさいっ!!」
何故謝ってしまったのか。自分でも理解出来ぬ内に、素早くバスルームに戻り扉を閉める。 時間にして1秒にも満たない逡巡の間だが……それでも私の精神を乱すには十二分な衝撃を及ぼし 逃げ込むように再び湯船に飛び込むと、顔を沈めて無音の叫びを吐き出した。
『バスタオル、ここに置いておきますねぇ』
扉越しのシスターさんの言葉すら、今の私の耳には届かない。 俯いた先の水面には、上がる直前の倍は紅潮した私の顔が映し出されている。 この頬の上気も水面を揺らしてしまいそうな心臓の鼓動も、全ては長風呂で上せたせい……だと思いたい。 ぶくぶくと音を立てて弾ける呼吸。伴って生じる、今の心境を表すかのような複雑な波紋。 ……見られてしまったただろうか。それとも、素早くドアを閉めたから見る間もなかっただろうか。 後者であることを強く願う。そう思いこんでいなければ、この緊張が解けることはない。
暫くした後、私は脱衣所に人が居ないことを確認してから素早く体を拭き、パジャマに着替えて自室へと戻った。 …………お風呂上がりなのに悶々とした気持ちのままなのは、初めてだ。
夜更け。ベッドの中で数時間前の出来事を思い返す。 いや、出来ることならば思い返したくない事ではあるが……ふと一つの疑問が思い浮かんでしまったのだ。
シスターさんの“気”は並々ならぬものである。 明確にその“気”を向けなくとも、ある程度武術を嗜む者であれば独特な気配を感じ取ることが出来るだろう。 事実、修練中のあの一件以前からシスターさんに対しては……普通の人とは異なる雰囲気を覚えていた。 けれど、あの時はその気配が微塵も感じられなかった。“気”のみならず、普段の気配すらも存在しなかった。 言うならば気配を殺していたかのように────彼女という存在に気が付くことが出来なかった。
“気”で相手を飲み込むだけに留まらず、逆に“気”を完全に消すことも出来る……? だとすれば。あの人は私に悟られぬように動くことも出来るはずだ。先程の一瞬のように。 例えば…………そうだ。こっそりと抜け出した私を、尾行して監視することだって………………。
……そんな私の曖昧な推理は、迫り来る睡魔の中に掻き消えていく。 きっと起きてシャワーを浴びれば消えているような泡沫の思考。それでも想起せずには居られなくて 未だ火照りの治まらない逆上せた身体を丸め、蹲るようにしてベッドの中へと潜り込む。 …………シスターさん。あの人への謎は深まるばかりだ。そして、その謎と同じくらい……私は、あの人に「興味」を抱いている。
いつかこの大阪の「異変」を突き止め、あの人の謎も明かして見せる。 微睡みの中で肥大化した“夢”を心の中で反芻している内に……いつの間にか、眠りの中の“夢”へと落ちていった。
結論から言うと、その日の朝稽古は非常に有意義なものになった。
瞳を閉じて昨日を思う。シスターさんから発せられた“気”を回想する。冷静になって解読する。 剣………とは、違う気がする。もっと重い感じ。身が竦むほど大きな岩の塊を投げつけられるイメージ。 洪水の大瀑布のような、私をどうしようもなく飲み込む巨大で圧倒的な存在感。 だが虚像の輪郭さえくっきりと浮かべばシミュレーションはできる。 受けるのは論外。例え握るのが真剣だろうと私ごとぽっきり折られる。躱すか、いなすか。 重厚ではあったが鈍重の印象は無かった。簡単に反撃させてはくれない。ならどうすべきか。 もちろんシスターさんを敵視しているわけではない。むしろ現状では唯一頼れる味方といってもいい。 ただ私の中で彼女が只者ではないことは確信となりつつある。きっとあの“気”は本物だ。稽古の相手としてはこの上ない。 今までにない仮想敵を設定しての素振りは驚くほど身が入った。自分の置かれた状況をも忘れるほどに。 そして励めば励むほどシスターさんへの「興味」はむくむくと膨れ上がっていく。 どれほど強いのだろう。どんな道のりを歩いてきたのだろう。───何者なのだろう。
けれど汗まみれで稽古を終えてみると洒落にならない問題が浮上する。 それはこの非日常にあってどうしようもなく日常的な支障だった。
「服、足りないな………。他のものも………どうしよう………」
シャワーを浴びて風呂に浸かろうと脱衣所を目指しながらぼそりと呟く。 まさかこんなことになるなんて思っていなかったから服や日用品の間に合わせが足りなくなってきた。 制服と剣道着と、あとは寝間着くらいしか持ってきていないのだ。稽古のたびに替えることを考えると下着も不足している。 他にも1日や2日程度ならば無くても無視できるものがここに来て気になり始めていた。
「誰もいないお店でお金のこと気にするのもしょうもないけど、かといって泥棒するわけにもなぁ………」
勝手に持っていくのは私の常識と良心が認め難い。だが背に腹は代えられない。 仕方ない。お金と一緒に一筆書いておけば支払ったことになるだろう。幸い手持ちはもしもに備えて両親が持たせてくれた分がそれなりにある。 すべきことは“戦い”の痕跡の捜索と調査だが、加えて生活に必要なものを揃えられるお店探しも並行することにしよう。 今日の探索の予定を頭の中で組み立てながら脱衣所の扉を開い、て………。
「「………あっ」」
瞬間、私の中でぱちんと音がした。ブレーカーが落ちた音だった。 1度あったことは2度目もある。なら3度目もあるのだろうか。私には分からない。 だが少なくともシスターさんはそこにいて、そして昨日よりも状況は悪化していた。 修道服を着ていないシスターさんを私はその時初めて見た。というより、何も着ていなかった。 真っ白な裸身が脱衣所の電灯によって照らされ、あたかもシスターさん自身が輝いているようだった。 その身体を下着が包んでいる。黒である。あまりにも黒でありブラックであった。肌とのコントラストが潮目のように境界を際立たせて優勝していた。 レースのついた大人っぽい下着だけでも破壊的なのにシスターさんは更に得物を身に帯びていた。 ガーターベルトである。14年と少し生きてきて初めて見た。ガーターベルトである。 黒いガーターベルトが真っ白なニーソックスを吊っていた。下腹を覆うレースも太ももを這う吊り紐も人を惑わせる悲しき兵器だった。 核弾頭である。幻の不発弾はここにあった。放送はやっぱり嘘じゃなかったのだ。 昨日にみたいに咄嗟に謝るとかそういう次元にない。私はただぽかんと口を半開きにして見惚れてしまっていた。 頭の中はまさにリオのカーニバル状態だった。行ったことないけど。
「あらら。もしかしてこれからアズキさんも使います?」 「え、あ、はい」
何を言っているんだろう私。他に言うべきことがあるんじゃないのか。 謝って脱衣所の扉を閉めるとか………ええと、謝って脱衣所の扉を閉めるとか。 呆けてロボットみたいな返事しかしない私に対し、シスターさんは気にするでもなく名案を思いついたかのようにぽんと両手を合わせて言った。 言ってしまった。
「あはー。私もこれからシャワーを浴びようと思っていたのです。 一緒に入りませんか? 汗をかいたままでいると風邪を引いてしまいますし、ここのお風呂は無駄に広いんですよ」 「え゛」
何を考えてこんな設計にしたんですかねぇ、分かりませんねぇ、とのんびり答えるシスターさん。 対する私はというと頭の中のブレーカーを上げようと試みるのだが何度やってもうまくいかない。 どうなっているんだ。剣道の修行で鍛え上げてきた鋼の精神はどこに行った。まさかこんな時に限って有給申請してリオに旅立ってしまったのか。 そうこうしている内に私の手首は半裸のシスターさんに優しく握られてしまい、ここに命運尽きたのである。
このお風呂場が一般的な規模のサイズであったなら、私の理性は蒸発していたかもしれない。 辛うじて保たれた理性を繋ぎ止めるのは、43℃という熱めの温度設定と家族風呂もかくやといった広さの風呂場だ。 シスターさんに促されるがまま服を脱ぎ、汗を流して湯船の中へ。
シャワーを浴びる、という言葉通り、シスターさんは二つ設けられた洗い場で湯をかけ流している。 考えてみればシスターさんは外国の方だ。日本では一般的な「湯船にゆっくり浸かる」という文化に馴染みが薄いのかもしれない。 ……そもそも、これまであの人に関するパーソナルな情報について関心を持っていなかった。 落ち着いたアッシュグレーの髪や流暢な日本語も相まって、別段意識を向けることはなかったが……。 穢れ一つ無い、純白とも言い換えられる肌が網膜に焼き付けられた事で認識が改められた。
そしてその肌が、四肢が、2m以内という至近距離に未だ存在しているという事実に思考が沸騰しかける。 本当は駄目だけど……良くないことかもしれないけど!もう一度だけ確かめたい! そう荒ぶる心を抑えつけ、曇ガラスより透けて見える夜空と水面の波紋を見つめ続ける。 シスターさんが洗い終わるまでは湯船から上がることも……視線を移すことすら許されない。
…………誰かとお風呂に入るなんていつ以来だろう。 温泉のような大浴場ならともかくとして、こういった「お風呂場」に複数人で入るのは本当に久しぶりだ。 親族でない人となれば初めての経験である。となればこの動悸が冷めやらないのも仕方のないことだ、うん。
あ、駄目だ。思考が一段落すると余計な雑念がこみ上げてくる。 真珠のような白と黒のコントラスト。創作の世界でしか見たことがないような装飾品。 ガーターベルトって実在するんだ。妖艶の象徴とも言えるそれを、聖職者であるあの人が付けていたという事実もまた混乱を齎す。 いやそもそも、こんな思考を巡らせる事自体いけないことだ。当の本人が直ぐ側に居るというのに。 目を強く瞑り気持ちを押し殺す。今はただ心頭滅却、純粋に広い湯船で精神を落ち着かせて────
「あらら。結構熱めですねぇ。ここまで熱いとすぐにのぼせてしまいそうです」
────思い掛けず近くから聞こえたその言葉に、思わず目を開く。
水の滴る肌。先程よりも抑えめで、しっとりと艶めかしく輝く淡い白。 タオルの隙間より覗く、濡れて纏め上げられた濃い灰色の髪。 2mという距離を隔てていたことで保たれていた安寧が、またしても一瞬で拭い去られる。 距離にして……どれくらいだろう。最早目測すら覚束ない。ただ、手を伸ばせばすぐに届く距離であることは確かだ。 湯船に足を伸ばすも湯の温度に驚くシスターさん。その姿が門前に、目の前に映し出されて
その姿に、先程存在していたコントラストは見られない。 一面の白。その中で一点映える青い瞳。湯気の立ち込めるお風呂場に霞むその姿は、先程の姿とはまた異なる美しさを漂わせている。 それが何を意味するのか。白しかないということは、つまり。黒色が消えているということは、つまり。 この薄い湯気の中で目を凝らせば、つまり────。
……その日。私は人生で初めて、お風呂場で気を失った。
「………よく眠っているようですね」
客間の扉を僅かに開いたクエロは内部の様子を確かめてそう呟いた。 梓希が全身に負った傷は彼女の想像以上に消耗を強いている。傷を治すのにも体力がいるのだ。 深い眠りについているのを確かめたクエロは扉を閉じ、その足で音もなく廊下を進んでいく。 客間を覗いていた時に浮かべていたほんの微かな唇の綻びはその時にはもう無機質なものになっていた。 やがて裏口の扉を開いて外に出た。5月になったとはいえ夜半の風はまだ肌寒い。 教会の裏庭は静寂に包まれている。月光の青褪めた色に染まって寝静まるそこは平穏そのもののように見えた。 数歩進み出たクエロはふと身体を軽く沈み込ませ、膝を撓ませる。 そして、そのまま後方へふわりと飛び退った。 まるで重力を無視したかのような、柔らかく孤を描く後ろ宙返り。 ただそれだけで教会の屋根の上へと到達するのだから明らかに人間業ではなかった。 着地と同時に軽くステップを踏んで体勢を整えたクエロは何でもないことのように教会の三角屋根をすたすたと登っていく。 掲げられた十字架のあるあたり、教会の屋根の頂点へ至ったクエロはそこから遠景を見渡した。
「ああ、今夜も」
囁きは夜風に乗って消えていく。 クエロの目には遠い街の一角で轟と炎が燃え盛ったのが見えていた。 続いて大きな爆発。周囲の建物が破壊されて瓦礫が弾け飛ぶのが立ち上る炎の明かりによって見えた。 彼方とはいえ、これだけ派手に“戦い”が起きていてもこちらまで一切音は伝わってこない。 ───この聖杯戦争において、クエロはあくまで聖堂教会から送り込まれた監督役。名代に過ぎない。 全体を統括する立場ではあるがそれぞれの役割を持った聖堂教会の人員が数多く裏では動き回っていた。この馬鹿騒ぎの隠匿のために。 聖堂教会は時代遅れの魔術協会と違い科学に対しての抵抗感など無い。 アナログな手段は当然として第八秘蹟も用いられ、そしてサイバー関連に長けた信徒たちも力を尽くしている。 あれだけ目立つことが起きていてもこの街の外からは認識されない。『つい見逃して』しまう。 SNSなどにも写真や動画が出回ることはない。万が一にも針の穴を抜けた証拠が出回るかもしれないがそれもすぐに消される仕組みになっている。 全ては無かったことになる。しかし─── クエロは足元、梓希が眠る部屋のあたりをちらりと見遣った。そして溜め息をつき、教会の屋根を蹴って重力に身を任せた。
とうとう死ぬのだと。その瞬間まで来て、ようやく悟った。
シスターさんは“気”を放つことができるのと同じくらい、ほぼゼロなまでに“気”を殺すことができる。 それは私の中でおそらく間違いないという認識に至っていた。 まだ私の立場ではその残滓をも掴めないくらい武術の高みにあるとか。私の想像もつかないような修羅場を潜っているとか。あるいは、エトセトラ。 どちらにせよ、剣道という在り方に身を捧げてきた私よりも「戦い」に染まった生き方をしてきたはずという予想は大きく外れてはいないだろう。 まるで本当に命の遣り取りを繰り返してきたみたいだ、と理性が言う。本能が言い返す。みたい、ではない。本当にそう振る舞ってきたはずだと。 そういう人なのではないだろうか、という疑問は九割方はきっとそうだろうと固まっていた。 発することについて操れる。でも感じ取る方は鈍感であろうというのはあまりに虫が良すぎる話だ。 私がいつどんなタイミングでこっそり教会を抜け出そうとしたって、彼女は平気でそれを察知しているに違いない。 昨日の朝の街への探索がそうだった。誰の気配も感じない、というのが今となっては逆に怪しかった。 誰かの気配と足音がした後に、それらがさも存在しなかったかのようにいなくなったことも。
ならば逆転の発想だ。教会にいては動きを察されてしまうならばそもそも当人が教会にいなければいい。 私は待った。辛抱強く待った。シスターさんが夜更けにこの教会から立ち去っていくのを。街の方へ歩んでいくのを。 可能性に賭けた。そうするかもしれないという可能性に。そして賭けに勝った。 窓に映ったシスターさんの小さくなっていく後ろ姿を見て思わずガッツポーズを固めてしまったくらいだ。 彼女が十分に離れたのを確認してから、意気揚々とその後を追いかけたのだ。 シスターさんはこの大阪における「異変」へかなり深いところまで食い込んでいるはずだ。 きっとあの人は私の知らない多くを知っている。昔から勘に関しては鋭かった。彼女を知れば、おのずと今大阪で起きていることも分かる。 だから彼女の行く先には、きっと「何か」があるはずだ。そんな勘を信じ切っていた。 胸に宿るのは恐ろしさ。それを上回る好奇心。興味。高揚。その他、言葉にできない感情の数々。 行くな、と本能が叫び、行こう、と理性がそれへ麻酔をかけていた。
───私の読みは正しかった。そして、その時点でどうしようもなく詰んでいた。
辿り着いた。辿り着いてしまった。 私は数日を費やしてようやく“戦い”へと至った。至ってしまった。 シスターさんの後を追うこと数十分。夜闇に包まれる大阪の市街へと辿り着いた私へ向けて大きな音が響いてくる。 コンクリートが勢いよく砕け散る、発破の現場でしか聞けないような騒々しい音。
「───」
だが、私はその破砕音へ向けてまるで操られるようにふらふらと歩き出してしまっていた。 正直このあたりの記憶は朧気にしか残っていない。残っていないのが心を守ろうとする私の防衛本能の働きだろう。 この破壊の協奏曲にとあるサーヴァントのカリスマというスキルの効能が乗っていたのは後から知った話だ。 理性も本能もどうでもいい。『この音のするところへと向かうべきだ』という感覚は殆ど洗脳に近かった。 さらに言えば『この音と共に死すならばそれは至上の栄誉である』とさえも。 だからビル群を抜けた先の広場にあったその存在を見た時───私は理由も分からず不覚にも涙を流していた。 かのお方はゆるりと宙に浮いていた。一振りの剣を携え、柔らかい微笑みと共に遍くもの全てを睥睨する。 現代人からすれば奇天烈な格好は、その神々しさに比べればあまりに辿々しく稚拙な常識だった。 視線の先に何かいたようだが、心を囚われていた私にはその人影しか目に映らなかった。 その在り方、その微笑み、全てに感動していた。自分の人生の全てがひどくつまらないものに思えた。 あれだけ執着していた剣士としての在り方さえ目に映った人影に比べればくだらないものに思えた。 宙に浮く方の唇が少しだけ動く。それは欠片さえも自分に向けたものではなかったが、それを目の当たりにしたことだけでも恐悦至極に感じた。 そうか。死ぬのだ。これからあの方が剣を振るい、その余波で私は死ぬ。なんて素晴らしいことだろう。 あの方の手にかかって死ぬならばこれほど最上の在り方はない。だから死ぬべきだ。よし、このまま死のう。
………正気ならば絶対にあり得ないそんな思考を私は受容し砕け散ろうとしていた。 宙に浮く人影に比すれば戯れのような敵意を向けて抗しようとする地上の人々のことなど目に入りもしなかった。 ただ、そのサーヴァントに殺されるために頼りにしていた竹刀さえ抜かず自分の終わりを迎えようとしていた。 凝視していたそれが剣を振り抜くのよりも───私の襟首を“何か”が捕まえるの。 時間にしてコンマ5秒ほど。だとしても、後者のほうがギリギリ早かった。
後はジェットコースターだ。 何かを思う暇は無い。襟首を掴んだそれが物凄い勢いで私を引っ張る。 直後、火薬庫へ火が点くような激烈な破砕音が轟いたが、その音が私を捕まえて五体を引き裂くよりも襟首を掴んだものは僅かに早かった。 空中に浮きながら引き寄せられるまま吹っ飛ぶ私はいつまでも空中を引っ張られ続けるその勢いからようやく状況を知った。 私を捕まえて引っ張るものが、破滅の余波から逃れようと必死で後退しているのだ。 私を引っ張っているものを目で辿った私はようやくおおよそを理解した。 ───ああ、なんということ。 ───どうしてあなたが私を引きずっているんですか。 ───どうしてあなたの腕がそんな風に伸びているんですか。肘から分かたれて、鎖で繋がって、鎖の先の腕が私を掴んでいるのですか。 ───こんなの人間の腕じゃないじゃないですか。アニメに出てくるような、ロボットのロケットパンチみたいじゃないですか。 ───こんなの人間の脚じゃないじゃないですか。風よりも速く駆けるその脚の出力はとうに人間らしさから離れているじゃないですか。 ───ああ、知っていたけれど。きっと、知っていたけれど。
───あなたは、まともな人間じゃない。
「───も~。アズキさん。迂闊に出歩いてはいけませんって言ったでしょう?」
いつの間にか私は何処かの公園の野原に降ろされていた。 私を襲おうとした猛威は………存在しなかったわけではないらしい。こうして耳に轟音の名残が届いている。 視線を戻す。じゃらじゃらと金属音が響いている。そこで私ははっきりと私をここまで連れてきた者を見た。 肘から先が鎖で繋がった腕がどういう原理か巻き取られている。末端まで至った腕がばちんと繋がり、ここ数日で見てきたものと同じカタチになった。 接続部分を何でも無いことのように見やるシスターさん。明らかに自然な人間ではない。私が思わずしたことというと───
「───っ」 「………っ! わ、わわ。どうしたんです?」
震える膝を打って、よろめく身体を手繰って、その人の身体を抱きしめることだった。 さっきまで何を考えていた? 私らしくもないこと、いや無理やり私らしくさせられたことを考えさせられていなかったか? 恐ろしかった。それがあまりにも恐ろしくて、ただ無性に温もりが欲しかった。
「あ、ぅあ」
胸へ埋めた顔から涙が溢れた。情けなく涙を流すなんて本来なら許せるはずもない。 でも、無理だ。堪えられるわけがない。心がひび割れてその隙間から漏れてしまっている。もう止めようない。 失格だ、私は。でも腕を伸ばし、脚を駆って、人間離れした性能を発揮した彼女の胸は見た目通りにとても温かかった。
「あ、ああ。………あぁぁぁ………っ! クエロ、さんっ、私、わたし………ッ!」 「………。いいんですよ。もうちょっと後にしましょうか。ね。アズキさん」
こんな時にも彼女の言葉は薄っぺらく、そして優しすぎて、私はどの涙を堪えるべきか悩んでしまうのだった。
先程の姿が白と黒のコントラストで彩られたアートであれば、今の姿は淡い色調の映える水彩画か。 白い肌にほのかな桃色を帯びる唇、逢魔時の暮れた空を思わせる青色の瞳。それらが織りなす端正な顔立ち。 これより下には目を移せない。映してはいけない。込み上げる好奇心を鉄の理性で繋ぎ止める。
湯船が比較的広く、肌と肌が触れ合うような距離でなかったのが幸いした。 人一人分の間を空けて湯に浸かる二人。私はと言えば、水面から下に目を向けぬように視線を泳がせている。 そんな私の様子を怪訝に思ったのだろうか。シスターさんは少し首を傾げると、空いていた距離を詰めて私の側へ。 ……えっ?移動に伴って生じた水流を肌で感じる。直ぐ側に人がいる、という感覚を身を以て味わっている。 突然のことで思わず驚きの表情を浮かべてしまう。そんな私の顔の側まで、シスターさんはその瞳を近づけて
「……随分顔が赤いですねぇ。少しお湯の温度下げましょうか?」
澄んだ瞳の、その奥まで見えてしまいそうな距離。 近い。逃げられない。私の背後にあるのは壁、顔を仰け反らせることも後退することも難しい。
そしてシスターさんは屈んだ状態のまま、私────の横にある蛇口へと手を伸ばす。 壁際で、顔を迫らせて手をつく形。この構図に見覚えがある。そうだ、これは巷で噂の……壁ドンなるシチュエーション。 顔だけでなくいろいろなものが近い。吐息の音すらも聞こえてきそうな至近距離。
この一瞬がずっと続いてくれたら、なんて。 沸騰した思考回路が脈絡のない事を……或いは、理性で誤魔化された本心を露わにする。 「これ以上」はなくていい。この一瞬を切り取って、何度も何度もアルバムを開いては見直していたい。 不思議と鼓動は落ち着いている。けれど体温は急上昇、頬の火照りも治まらない。 温度を1℃上げてしまいそうなほどに上気する身体。至福のままに意識が飛びそうに────
あっ。駄目だ、このままだと不味い。脳内に掛けられた最後のアラートが鳴り響く。
「あ、あのっ…………ち、近い……です」
思考を断ち切るように目線を逸らし、絞り出すように言う。 私の言葉を受けてシスターさんは一瞬驚いた様子を見せ、改めて二人の距離に気が付くと その白い肌をほのかに赤く染めて、元いた位置から少しだけ離れた場所に座り直す。
…………少しだけ勿体なかったかも。 先程よりも2℃ほど高まった湯船に浸かりながら、私は最後の未練を反芻するのだった。
誰かに手を繋がれて帰るなど幼い頃以来だった。 シスターさん………ううん、クエロさんがぐずる私のとぼとぼとした歩みに歩調を合わせてくれた。 5月の真夜中の風はまだ冷たく、人っ子一人いない街並みはまるで影絵で作られた出来損ないのよう。 月の光で不気味に濡れたアスファルトを踏んで歩いていると、まるで世界中の人間が死に絶えて私たちだけが生き残っているかのようにうら寂しかった。 遠く離れた私たちの背後ではまだあの“戦い”が続いているのだろうか………。
赤く腫らした目でクエロさんのその後ろ姿を見ていると、ふと想起されるものがあった。 ───母だ。この人にはどこか母の面影がある。 私はいつも集中する時に決まって浮かべるイメージがある。冷えた鉄、煌々と燃え盛る炉。 鉄を焚べ、鉄を打つ。繰り返し鍛えて強靭な刃に作り変えていく。私がそうだし、おそらく父にも似た気配がある。 だから私の妥協を許せない精神性はたぶん父譲りだ。良くも悪くも父に似ているとたまに言われるのはそういうことなんだろう。 けれど母は私たちとは違った。あの人は熾火だ。 外からはほんのりと赤く色づいているだけに見える。分かりやすく燃えることは無い。 だが芯の部分は高温の炎で真っ赤に色づいていて、しかも消えずにいつまでも熱を発し続けている。 近くまで寄ってみて初めて知るのだ。それが物凄い温度を破裂させないまま緩やかに保ち続けていることに。 あれだけ厳格な父がいざという時に母に逆らえないということは何度もあった。 表面上は穏やかながら、決して曲がらず凛としていて、惚れ惚れするほどに気高い。 クエロさんの背中にはそんな母の姿が重なって映った。 ああ、そういえば物心ついた頃にこうやって手を引いて家まで連れて帰ってくれたのもお母さんだったっけ。 先程は万力のような途方もない力で私の首根っこを掴んでいた指は、こうしてみるととても繊細だ。 ほんの少し力を込めてその指を握り返した。ややあって、クエロさんも少しだけ強く握ってくれた。 特に何も語りかけず黙って歩いてくれているのが泣き疲れた心に優しかった。
人の肌の温度を全く感じない無機質な指。人間の肉ではできていない腕。きっと作り物の身体。 けれど私の指はそこから心強い安心感を覚えていた。冷たさ(あたたかさ)が確かにそこにはあったのだ。
あつい。纏わり付くような熱気が室内に立ち込めている。 じっとりと汗を帯びたパジャマを拭いながら、現在時刻を確かめる。 カーテン越しに差し込む日差しが指し示したのは「9時」の時計…………やや寝過ごした。
よもや本州の初夏がこれほどまでに暑いとは。 現在の気温は28℃。最近では札幌でもこのくらいの気温まで上がることはあるが、気温以上に蒸し暑い。 湿気が影響しているのだろうか?それとも、この部屋に扇風機以外の冷房器具が用意されていないのが原因か。 どちらにしてもこの暑さは堪える。汗が止まらない。頬を伝うそれを拭いながら、重い足取りで食堂へ向かう。 酷暑が続けばそれだけ替えの服が必要だ。仕方ない、今日あたりにでも衣装を買いに────
「おはようございます、アズキさん。昨夜は随分と暑かったですねぇ、ちゃんと眠れましたか?」
「ふわ……おはようございます。寝苦しくてあまり…………えっ」
寝ぼけた目をこすり、シスターさんを見る。 いつも通りの黒基調な修道服に身を包んで……あれ? 食卓に座るシスターさんの衣装がどこか違って見える。私はまだ寝ぼけているのか? この視界情報が間違っていなければ、それか私の認識が狂っているのでもなければ……シスターさんは、俗に言う「メイド服」を身に着けているようにみえる。 いや、確かに着てるな。何事もないような雰囲気も相まってつい見逃しかけたが、間違いなくメイド服を着ている。
「……あの、シスターさん。その服って……」
「あはー。この衣装ですか?クローゼットの中に何着か掛けられていたんですよねぇ。 ここの神父さんの趣味なのかはわかりませんが……ちょうどいいサイズだったので試しに着てみました」
なるほど。なるほど? 考えてみればシスターさんも、元々この土地の人ではなく海外から派遣された人員であるという。 となれば衣装も持ち込みで、私のように服の洗濯が追いつかないという事もあるのだろう。 合点が行った。何故メイド服がこんなところに?という疑問に関しては、恐らく有益な答えが得られそうにないのでスルーする。
にしても、この種の服を違和感無く着こなせているのは流石だ。 クラシカルなものでなくフレンチなフリフリメイド服であっても、それが正装であるかの如き気品を漂わせている。 ……実を言えば私も去年、文化祭でメイド喫茶を出店した時に着た経験があるのだが……髪色も相まってザ・コスプレといったような有様になってしまった。
そんな事を考えながら食卓に着くと、メイドさ────シスターさんが少し遅めの朝食の準備を始める。 今日の朝ごはんはなんだろう。気がつけば私の中で、毎日の食事が日々の楽しみになって────
「どうぞ、カレーです」
カレー。 差し出されたお皿には、若干の赤みを帯びたカレーが盛り付けられている。 ……カレー?予想していなかった献立に思わず思考がループする。うん、このスパイシーな香りは間違いなくカレーだ。
一般的なカレーと比べて、ルウの粘度が控えめだ。 スープとルウの中間。ライスの間をすり抜けていく程度の水気だが、完全な液体というほどのものでない。 具は大きめにカットされたレンコンやサヤインゲン、そして牛肉。 一見すれば「家庭のカレー」とはかけ離れた、本格的なカレー屋で作られたような見た目である。 そのクオリティもあって二重に驚かされる。これ、いつの間に作ったんですか。
「……い、いただきます」
しかしこの赤色に若干の躊躇いを覚える。 先日、想像を遥かに超えた辛さの麻婆豆腐でノックアウトされたばかりな私にとって……この赤さは、怖い。 口内の傷も癒えていて多少の辛さであれば耐えられるだろうが、最悪傷口が開きかねない。
恐る恐るスプーンを口に運ぶ。 カレー自体は好物の一つだ、よほどの辛さでなければ問題はない─────っ。
「………………こ、これは」
美味しい。とても美味しい。
見た目通りスパイシーな香辛料の風味でありながら、ただ辛さだけがあるのではなく それを包み、刺々しさを緩和させる爽やかな風味……レモングラスの香りが良く活きている。 唐辛子をベースとする辛味と柑橘系の酸味に、もう一つ。このコクは……ココナッツミルク? 辛味と酸味の相乗効果の中に甘みというエッセンスが加わることで、奥深い味わいを強く醸し出している。 遅れて広がるのは牛肉の旨味。想像していたカレーよりもエスニックな風味だが、途轍もなく美味しい。
勿論見た目通りの辛さもある。一通りの味が過ぎた後、一足遅れて辛さが駆け込んでくる。 しかしそれは突き刺すような「痛み」でなく、辛さという確かな「味わい」だ。 辛い、辛いが美味い。口に広がる辛さを打ち消すべく、もう一口が食べたくなる。 初夏の蒸し暑さすらも吹き飛ばしてしまうような爽快な辛さ。 同じ汗には変わりないはずなのに、寝起きの汗とは比べ物にならないほど爽やかな汗が込み上げる。
「……ごちそうさまでした。シスターさん、これ凄く美味しいですよ!」
「あはー。そうですか?そう言っていただけると作った甲斐がありますねぇ」
ふぅ、と一息零し手を合わせる。 カレーに対して名残惜しさを感じたのは久しぶりだ。 手作りでこれほどのクオリティを出せるものなのだろうか?改めてシスターさんに対しての印象が塗り替えられる。
しかし……この辛さを乗り切った代償も大きい。 具体的には汗が凄い。爽やかさこそあれど、肌に張り付く程まで濡れたパジャマは無視できない。 今すぐにでもシャワーを浴びて着替えたいところだが、生憎制服は全て洗濯に出してしまった。 どうしよう……流石に今の状態で街を出歩くのは恥ずかしい。例え街中に人が居ないとしてもだ。
……悩む私の表情に気がついたのだろうか。 シスターさんが少し考えた様子を見せると、頭の上に電球を浮かべたような閃きの表情で
「アズキさんも替えの衣装が足りないんですか?それなら────そうですねぇ。まだメイド服は余ってますし、一緒に着てみません?」
「…………えっ」
数時間後。 昼下がりの大阪にて、某衣装ブランドの袋を両手に持ったメイド服姿の少女二人が目撃された。 二人を撮影した女子大学生(22)曰く「アッシュグレーの子はニコニコしてたけど、金髪の子は燃えそうなくらい顔真っ赤にしてた」……とのこと。
「きゃーーーー!」 「うぉぉぉっ!?」 いつかのエルメロイ教室で、割とよく見られた光景。 不幸体質の少女が階段から転げ落ち、たまたま下にいた男子生徒にフライアウェイしていた。 「むっぐ…!んーー!」 当たりどころが良かったのか悪かったのか、どしんと音を立てて地面に倒れ伏した頭の直上には、少女の尻がみっちりと乗っていた。 「……あっ、ごっごめんなさいヒューゴくん!すぐ退きますから…!」 少女、ディオナが再び体勢を崩しそうになりながらもヒューゴの顔面を解放すると、赤面しきった顔のヒューゴはすぐに叫んだ。 「お前な…!いつもどうせ脱げるからって最初から履いてないのはどうなんだ!?」 「えっ…ええっ!?な、何の事ですか…?」 「下着の話だ下着の!ぱ・ん・つ!一応スカート越しとはいえなぁ、俺になんつーアダルトな不幸をぶちかましてんだお前は!こう…もっと自分を大事にしろ!」 「え、えぇっ!?そんな…今日は確かちゃんと履いて…あれ?ない…?」 自分のやった事を認識したのか、みるみる内に顔が赤く、そして青くなるディオナ。 「うぅ……こ、こんなことをしてしまうなんて…。……もしかして、私、神様に…」 「おい待て、その考えはまずっうぉぉぉぉぉ!?」 魔術の効果が薄まった瞬間、校舎のありとあらゆる部分から様々な崩壊が始まり、再び絶叫が響いた。 ──なお、結局この件については、ディオナが下着をうっかり忘れたという結論で片付いたのだが、ロードとヒューゴの胃痛は暫く止まなかったということは最後に記しておく。
「は~あ、今日もボスを殺せませんでした。残念ですねェ」 『何、この程度で殺されては君のボスを名乗るのには不足だからな』 用意した手の内を出し尽くしてなおBOSSを殺せず、両手を腰に当てて息をつくコロシスキー神父。 一方、ノイズ塗れの姿で彼の前に立つBOSSには(そもそも顔は見えないが)疲労の色が見えず、その両手にはコロシスキーが放った聖書の頁が一つ残らず指で挟み取られていた。 『しかし、今回の聖書投げは見事だった。頁速もそうだが面制圧の綿密さに成長を感じたぞ』 「それを受け止め切ったボスに言われるのも複雑ですねェ~」 落ち込んでいる…ように見えて既に切り替えてBOSSを殺す方法の考案を始めているコロシスキー。 そんな彼の脳裏を読んでなお、BOSSは変わらず不敵に笑う。 『安心しろ。君に殺される気は当然無いが…君以外に殺される気も毛頭ない。 これからも精進するといい。私はいつでも、君の挑戦を受け入れる』 「…んもォ~ッ、殺し文句が上手いですねェボスったらァ~ッ!」 照れ隠しにヘッドショットを仕掛けるコロシスキーと、それを軽く避けるBOSS。 なぞのそしきで日々繰り広げられる、ありふれた何気ない一幕であった。
「なぁんだ。そんなの食べればいいじゃないですか~」
………などと、私のぼやきにクエロさんがあっけらかんと答えたのが10時頃のこと。 それから2時間後。唖然とする私の目の前でクエロさんがちょっとした無茶をやらかそうとしていた。
「ちょ………いいんですか!? こんなことして!?」 「いいんじゃないでしょうか~。冷蔵庫こそ稼働しているとはいえ、食品はそう遠くない内に駄目になってしまいますし」
さもまっとうなことを言ったとばかりにあっけらかんとしたクエロさんが冷蔵庫を物色する後ろ、フライヤーがぐつぐつ音を立てている。 小さな串カツ屋のフライヤーである。先程クエロさんが油を注いでガスコンロへ手慣れた様子で火を入れてしまったのである。 言うまでもなく不法侵入である。店に誰もいないのだから仕方ないとばかりに、あまりにも堂々とした我が物顔なのである。 鍵が開いているのをいいことにずかずかと無人の店舗へ乗り込んだクエロさんはやりたい放題し始めちゃったのである。 はわわ、と戸惑う私の前で冷蔵庫に保管されていた食材が次々と取り出されていっていた。 適当に取り出し終わると卵と小麦粉も出してボウルにぶちまけ、バッター液を作り出してしまう。あああ、そんなにたくさん。
「わ、私ん家は前にも言った通り仏教徒なんですけどっ! そちらの神様的にこれはアリなんですかっ!?」 「あはー。対価さえ置いていけば泥棒にはなりませんよ。ほら、主がお恵みくださった糧を無駄にしたらそれこそ罰当たりです。 だから大丈夫だいじょーぶ。はぁい、じゃんじゃん揚げていきましょうね~。あ、キャベツ食べます? 日本のパブではお通しと言うんですよね」 「しょうもない! 気付いてたけど! 薄々気付いてたけどこの人しょうもないっ! 仕事以外のことになるとこの人すっごくしょうもなくなるっ! あーあー、パン粉もそんなにいっぱい出してっ!」
なんて言っている間にクエロさんは豚肉やら海老やら蓮根やらに串を通すとバッター液とパン粉を潜らせ、ひょいひょいとフライヤーに投げ込んでしまった。 途端にぱちぱちと食材が揚がっていく美味しそうな音が店内に響き出す。同時に私の空きっ腹が串カツモードへとフォームチェンジする。 もう駄目だ。串カツを食べなければ心が歪んで人間ではなくなってしまう。揚げ物ビーストになってしまう。 畜生。もう知るか。私はあらゆることを受け入れることにしてザク切りにされたキャベツをお店の秘伝のタレ(2度漬け厳禁!)につけて齧った。 くそう、美味しいなぁ。ただキャベツをタレを塗しただけなのに何でこんな美味しいのかなぁ。 ………しかし、カウンターの奥で修道服姿のお姉さんが串カツを次から次へと揚げている姿は目がちかちかするほど似合わないなぁ。
「うん。ちょうどいい頃合いですね。はい、揚がりましたよ。 えーとぉ、これが豚でこれが椎茸、これが海老で、あとは蓮根に帆立に茄子………それからぁ」 「手当たり次第に揚げたんですね! やったぁ美味しいそうだなぁ! いただきます!」
私の目の前へどんがどんがとお祭りのように盛られていく串カツたち。 最早ヤケクソだ。揚がっちゃったものはどうしようもない。知ったことか、どうとでもなれ。 私は日本人である。日本人は海老が大好きである。なので海老の串を手に取るとこれでもかとタレの入った缶に突っ込み、一口でぱくりと咥えた。 途端、押し寄せる滋味。歯を押し返してくる海老の身のぷりぷりとした弾力。タレの何重もの層となって襲い来る奥深い味わい。 そう。これだ。これが食べたかった。本当は、友人たちと。
「───………美味しい」 「あはー。そうですかぁ? どれ、私も試しに………、うん、ちゃんと揚がってますねぇ。 どんどん食べちゃってください。冷蔵庫の中にあるもの、手当たり次第に揚げてしまうので~」
揚がった茄子をタレにつけて頬張り、満足気に頷くクエロさんを後目に豚串をチョイス。 もう止まらなかった。私は腹が減っていた。うおォン、私はまるで人間火力発電所だ。 たぶん本当の職人が揚げるものからすれば稚拙な出来なんだろう。割と料理上手ではあるが、さすがのクエロさんも揚げ物調理のプロじゃない。 でもそういうことじゃない。その時の私にとってはそれはそういうことではなかった。 クエロさんが揚げていくものを次から次へと口に運ぶ。自慢じゃないが、私は物心ついた頃から激しい剣道の修練に打ち込んできた身だ。 当然物凄い体力を消耗するので常人の摂取カロリーでは到底追いつかない。必然食事で補うことになる。結果胃袋が鍛えられる。 おまけに食べ盛りだ。ご飯が炊けていないのが惜しかった。その分、まるで飲み物のようにするすると串カツは腹の中に収まっていった。 何本目だったろう。ブロッコリーの串揚げ(これがタレをたっぷり吸って馬鹿にできない美味しさ)をばりばり咀嚼しながら思った。
“私、剣道の大会が終わった後は大阪グルメを食べ尽くそうって話をしていたんです、友達と。………紅生姜の串揚げ、食べてみたかったな”
共に無人の街を歩く最中、出しっぱなしで風に揺れる暖簾を見てふと呟いたのだ。言えばクエロさんがこんなふうにしてくれるかも、なんて欠片も思っていなかった。 現在の選択を後悔しているわけではないけれど、それはそれで本来ならばあり得た未来を空想してつい口にしただけだった。 返しの言葉が『食べればいいじゃないですか』で、こうしてこのようなことになっているわけだけれども。 それでも想像をする。もし聖杯戦争なんて起きず、私は剣道大会を終え、友人と共に束の間の大阪観光をしていたならば。 優勝していたならば祝勝会だったろうし、敗退していたなら残念会。それでもきっと友達たちと一緒にお腹がはち切れそうになるまで大阪名物を詰め込んで、そして帰りの飛行機に乗っていた。 きっと大はしゃぎだったろう。きっと美味しかったろう。きっと楽しかったろう。そうやって日常に戻っていったろう。 私は日常の裏に潜む非日常のことなど露ほども知らず、再び剣道に打ち込む日々を送り、高校生に進学しても相変わらず剣道を修めて、そして………。 当たり前の日常にずっと心地よく微睡んでいたはずだ。そんな感傷をあの暖簾を見た時に覚えた。 ………不意に目の前の皿へ揚げ串が差し出されて我に返った。 串に刺さって揚げられていたものは私がこれまで口にしたものとは違うものだ。纏った黄金色の衣の奥で微かに赤色を帯びていた。 クエロさんを見つめる。彼女はあの特徴的な薄っぺらい微笑みで、どこかはにかむような調子で言った。
「見つけるのが遅れてすみません。紅生姜というのは私には馴染みがなくて。お漬物を揚げるという発想に思い至るまで時間がかかってしまいました」 「───。………いただきます」
串を手にとって口にした。さくりと解ける衣の感触。ぴりりと舌先を刺激する生姜の優しい刺激。梅酢がもたらす日本人が慣れ親しんだ酸っぱさ。 揚げ物なのに油っこさなんてまるで感じない、とても軽やかであっさりとした味。食べるだけで口の中がすっきりとしてくる。 いいや。正直に言おう。名物と聞いて期待したほど美味しくはなかった。決して不味くはなかったけれど、十分美味しかったけれど、なるほどこういうものか。そう納得する程度の味ではあった。 これが年齢を重ねて油がキツくなった頃に食べればまた違う感想があるのかもしれない。プロが揚げればこの程度ではない、更に信じられないくらい美味しいものかもしれない。 だがまだ14歳の私からすればこれでもかというほど脂っこいものでも美味しく感じられる。 だから物足りなさみたいなものを覚えたかといえばそれはそうであり───そして、それらを圧倒的に凌駕する形で満足感が私の心に押し寄せていた。
つい微笑んでしまう───気遣ってくれたんだ。私のことを。クエロさんなりに。 この人は人の気持ちを慮ることについては不得意だ。いや、鈍感と言ってもいい。それはこうして共に同じ時間を過ごすようになってきて分かるようになったことだった。 型にはまった定型的な感情の遣り取りならば無難にこなせるが、より個人的で複雑なものになると判断が及ばない。横にいた私がフォローすることがあったくらいだ。 以前その理由をクエロさんは少しだけ話してくれた。 “───私は感情過多の反対、感情過小なんです。喜、怒、哀、楽。当たり前に人が感じるそれを当たり前に感じることができない───” その時の申し訳無さそうなクエロさんを見た時の感情は、不思議と憤りだった。 どうしてあなたのような凛とした人が、そんなことでさも悪いことでもしたかのようにびくびくと怯えているんです。ちょっとくらい人の気持ちが分からないのが何だっていうんです。 私だって剣道部の後輩と意思疎通が上手く取れず悩むくらいそれは普通のことなのに、そんなことで───そんなことで、そんな辛そうな顔をしないで欲しい。 だから、そんなクエロさんがきっと彼女なりに一生懸命考えて私のことを気遣ってくれたこと自体が、びっくりするほど嬉しかった。 そこには気遣い上手では与えることの出来ない、不器用な人の不器用な気持ちがあったから。 彼女が揚げてくれた紅生姜の串揚げを、最後の一欠片を嚥下するまでじっくりと私は味わった。飲み込んでからクエロさんをカウンター席からじっと見つめて言った。
「美味しかったです。ありがとうございます」 「そうですか。まあ、そういうことでしたら。お粗末様です」
正面から礼を言ってもクエロさんは何も変わらない。次の分の串揚げの用意をし始めるだけだ。 いつもと変わらない、ただ穏やかなようでぎこちなさが薄っすら漂う返事。そこに微かな照れがあったと思ったのは私の気のせいだろうか? 追加の豚串をフライヤーに放り込みながら、ぼそりとクエロさんが呟いた。
「………次はお魚が駄目になる前にお寿司屋さんですかね」 「えっ」
───結局、あの大量のバッター液とパン粉が全部無くなるまで串揚げは揚げられ、私とクエロさんは食べまくった。 店を出る時にレジへ書き置きとともに入れられた数枚のお札は全部経費で落ちるということなので私の罪悪感は軽減されたのだった。
胸が迫る。比喩表現でなく、目の前に胸が迫る。 眼鏡のレンズ越しに、視界の全てを覆い尽くすほどの胸が門前に迫る。 これほどの距離となれば大きさなど些細なものだ。いや、それにしても大きい方ではあると思うけど。 不意に現れたそれを見て思わず呼吸が止まり────同時に、突沸を起こしたように心臓が跳ねる。
丘。双丘が唐突に目の前に現れた。 修道服というのは基本的に露出も無く、黒一色ということもあって起伏も目立ちにくい服装である。 クエロさんの……スタイルすらも包み込み抑え込んでしまうほど、修道服というものが秘める「清楚」の力は強い。 だが、今。目の前に迫る双丘は普段意識してこなかった「起伏」を明らかにして、「清楚」の力を刃に変えた。 向かい合い、胸が門前に突き出される。その一瞬だけで私の思考回路は……弾け飛ぶ寸前であった。
辛うじて理性を保っていられたのは、直前まで呼んでいた本のおかげであろう。 司馬遼太郎著「北斗の人」。北辰一刀流の開祖を主役とする作品で、物語中にて説かれた剣理の大宗がこの理性を救ってくれた。
「……どうかしましたか?」
「え、えっと……その、なんでもない……です」
それでも僅かに赤みを帯びる頬を本で隠し、そそくさとその場を立ち去る。 “それ剣は瞬速、心・気・力の一致なり”。一瞬の隙の中であれだけ心を乱されているようでは、私もまだまだだ。 心を鍛えなければ。何事にも平時で臨む鉄の精神を宿さねば。ぱんぱんと邪念を払うように、頬を叩いて自室へと戻る。 ……それにしてもあの起伏。私もいつか、あれくらいのサイズ感を得られるのだろうか。
「ご主人様、アトラス院より催促状が届きました。 『速やかに組織内で匿っている番外七大兵器をアトラス院に引き渡す事を要求する』、とのことです」 『…分かった。ご苦労』 とある都市の高層ビルの最上階、都市全域が見渡せる一室。 窓の傍に立つノイズ塗れの存在…BOSSは、クレピタンから受け取ったなぞのそしき宛の手紙を読み終えると、何時ものようにふっと笑った。 『今は何もしなくていい。いや、手出しは厳禁と皆に伝えておいてくれ』 「…よろしいのですか?ご主人様が望むのであれば、わたくしの力を、」 『いいんだ』 心配そうな眼差しを向けるクレピタンの肩に優しく手を置くBOSS。 『君の力を疑ってはいない。…だが、奴らアトラス院の技術力も決して侮れるものではない。 私は組織の長、君たちの命を預かる者として、君たちの安全をできる限り保証する義務がある。 …何、安心してくれ。こちらには取って置きの切り札がある』 そう言ってBOSSは懐(本当にそこが懐かは分からないが)から取り出したのは、 凛々しく立ちながらも可愛らしい表情をした少尉の写真だった。 「…ご主人様、その…」 『おっと、間違えた。こっちだったか』 写真を仕舞い、改めて懐から出したのは一枚の用紙だった。 「それは、確か…」 『アトラスの契約書だ。私の噂にあるだろう?あれは、真実だったということだ』 割と隠していた方の秘密だったのだがな、と言いながらBOSSはその契約書を懐に仕舞う。 『もしもあちらが実力行使を図るようであれば、これを使えば交渉ぐらいはできるだろう』 「アトラスの契約書は、確か世界に7枚しかない物の筈。それをご主人様は、一員を守るために…」 『当然だ。ニナだけではない。皆、我が組織には決して欠かせぬ人材だからな。 そして当然、君もまたその1人だ』 クレピタンに顔を向けるBOSS。 『何かあれば遠慮せず言うといい。君の働きは、私にそうさせるだけの価値があるのだから』 ノイズ塗れでその表情は見えない。 だがクレピタンの瞳には、BOSSの雄々しき眼差しが視えていた。
じゃらじゃらとアパートの屋上に鳴り響く、鎖の巻き取られていく音。 終端に至ってばちんと腕と腕が接合した瞬間、「ぐえっ」と苦悶の悲鳴が上がった。 床に投げ出された人影は蹲ってげほげほと咳き込んでいたが、やがて猛然と首をもたげてクエロさんを睨みつけ………。
「い、いきなりなにすっ………ぎゃあ!?代行者!?」
………睨みつけたのだが、じろりと睨み返したクエロさんを見た途端に顔色を変える。 以前クエロさんが魔術師と教会の人間は基本的に反目する仲と言っていたのが伝わってくる反応だった。 四つん這いで地上を見ていた私はそんなふたりの間ににじり寄り割って入った。空気を読んだわけではない。というかとてもそれどころではない。
「黒野さん、怪我はありませんか!?」 「え、アズキちゃ、じゃなかったアズキさんどうしてここに」
へたり込んだままの黒野さんの正面で彼女の身体を急いで確かめる。 ………良かった。スーツ姿のどこにも目立った傷はない。露出している少し浅黒い肌も煤がちょっとこびりついている程度だ。 爆発によってまるでゴム毬みたいに勢いよく吹き飛ばされていたように見えたのだけれどどうやら何らかの防御を行っていたようだった。 目を白黒とさせる黒野さんの手を取って私は語りかけた。
「私がお願いしたんです、黒野さんを助けて欲しいって」
喉まで出かけた言葉を飲み込んだような表情で黒野さんは私を見て、それからクエロさんを見上げる。 私には向けたことのないような冷たい目線でクエロさんは応じながら鼻を鳴らした。
「聖杯戦争の参加者であろうとなかろうと、魔術師などいくらお亡くなりになっても一向に構わないのですが。 ですが、まぁ。彼女はあなたがマスターではないと保証しましたし、ならば監督役として保護の義務が一応無くもない気がしますので」 「………礼は言いませんよ。私は巻き込まれた被害者というわけではありませんし、私ひとりでも逃げ切ることは可能でした」 「あはー。防御用の礼装を贅沢に使っておいて余裕ですねー。このままここから投げ落としてもいいんですよぉ?」
火花が散っていそうな遣り取りに私がおろおろしかけた頃、再び轟音が耳をつんざくように迸る。 足場にしているアパートがずしりと揺れる。5階建ての屋上にいるのに眼前の虚空を火の粉が舐めていった。 サーヴァント同士の激突がかくも恐ろしいものだということは既知であっても身を竦ませる。 冷静な態度でその余波を観察していたクエロさんは目を細めながら呟いた。
「監督役が彼らの戦いに故なく干渉するわけにもいきませんから早急に立ち退いたほうが良いですね。では仕方ありません」
その台詞の気色を耳にした私の頭の中で警告音が鳴る。メーデーメーデー。凄い既視感。今からろくでもないことが起きる。 だがそれに反応するよりも早く、クエロさんは有無を言わせない剛力で座ったままの私と黒野さんを腋に抱え込んだ。 そのまま屋上の縁に足をかける。私のげっそりとした気持ちを人に伝えられないのが残念だ。
「ちょ、やめっ、何しようとして…待って、本気!?」 「ああ、嫌だなぁ………辛いなぁ………寿命が縮むなぁ…」
荷物のように抱えられて顔を青褪めさせる黒野さん、諦念からもう微笑むしかない私。 「黙っててください舌を噛みますよ」と仏頂面であっさり言ったクエロさんは次の瞬間には縁を蹴り、屋上から飛び降りた。
「きゃぁぁぁああああっ!?」 「ひゃぁぁぁああああっ!?」
重力から解放された体内の内臓が浮き上がるこの感じ。みるみるうちに地面が近づく恐怖。 うっかり漏らさなかった私のことを私は心の底から褒めてあげたいと思った。
「むっ、焼き鳥ですか。美味しいんですよねえ、私は塩で食べようかな!」
串カツ屋での一幕。 次々と熟れた手付きで串打ちを続けるクエロさんが差し出したのは、豚バラ肉と玉ネギを交互に刺したもの。 “やきとり”だ。揚げ物ばかりでは飽きが来るということで、ここで一本シンプルな焼き串を用意してくれたのだろう。 肉であることに変わりはなく、箸休めと分類するには些か重たいものであれど、今の私は何だって食べる。 それに豚肉は好物だ。特に塩胡椒で焼いたこの“やきとり”は、子供の頃から食べ馴染んだメニューの一つである。
うん、美味しい。この大阪であっても変わらぬ味わいに思わず頬を綻ばせる。 熱い内に食べ進め、最後に残ったブロックを器用に食べ……そこで、クエロさんが驚いたような表情を浮かべていることに気がついた。
「……焼き鳥?」
それは純粋な驚きの表情。 困惑というよりは認識の齟齬、理解のための“間”が生じているような逡巡の思考。 まるでコンピューターがデータ処理に手間取って生まれたシークタイムのような、奇妙な空白が生まれていた。 ……クエロさんのこんな表情、初めて見たかも。
えっ、でも“やきとり”だよね。 私は生まれてこの方、これを“やきとり”だと信じて疑わずに生きてきた。 パパもこれが“やきとり”だと言って食べていた。ママも、そんなパパの言葉を信じて“やきとり”と呼んでいた。 同級生も、先生も、それどころか道すがらの居酒屋に掛けられた看板にだって“やきとり”としてこの串の写真が載せられていた。 だからこれが“やきとり”でしょ?そうだよね。……なんか、クエロさんに驚かれると自分が間違っているのかと疑いたくなる。
後日。改めてその名称の違和感を確かめるため図書館に出向いたところ。 豚串を“やきとり”と呼ぶのは北海道独特の文化で、それも一部地域に限られたものであるらしい。 …………思いがけぬカルチャーショックに気を失いかけた。そうなんだ、“やきとり”って……焼き鳥じゃなかったんだ。
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「あのぉ………どうして見ているんですか?」
「いけませんか?あなたが剣を振る姿が綺麗だったので見惚れていたのです」
「き、キレイですか。ありがとうございます………」
そう言われると嬉しくなってしまう。同時に少し照れ臭くて頬を掻いてしまった。
「体軸が全くぶれませんね。余程鍛錬を積んできたのでしょう」
「えへへ。剣道は小さい頃からずっとやってきたんです。ちょっとは自信もあります。
この前の大会では優勝したんですよ。それで全国大会に出ることになって、大阪に来てこんなことになっているんですけれど………」
「なるほど。そうだったのですね」
シスターさんは笑顔で私の話を聞いている。
………相変わらず妙に薄っぺらく感じる表情だ。嘘臭いというわけではないのだけれど。
気を取り直してシスターさんから視線を切り、稽古に戻ろうとしたその時だった。
───あ、面を打たれる。
物心ついた頃から剣を振ってきた身体が先に反応した。
降り落ちてくる剣へ応じて咄嗟に足を捌き、右にステップして面抜き胴を打つ。
避ける動きで敵を斬る。何度も練習して身体に染み付いた、攻防一体の得意技だった。
………と、身体を動かしてから頭がようやく追いついてきた。
腕に相手を打つ手応えはない。竹刀は何もないところを薙いでいた。
その先ではシスターさんがさっきまでと同じように棒立ちで立っている。
なんで今、私は面を打たれると感じたのだろう。
心がざわざわする。物凄い重圧だった。師範に本気で打ち込まれる時、いやそれ以上。
泰然としているシスターさんへ私は思わず尋ねてしまった。
「ええと………シスターさんって…もしかして、何か武術とかやってたりします………?」
シスターさんはくすりと笑って言った。
「あはー。さて、どうでしょ~?」
………薄々分かってきた。親切なだけの人では、どうやらないらしい。
「綺麗な亜麻色の髪ですねぇ、地毛ですか?」
何か特別な意味合いを込めて言ったわけではなかった。
そもそもクエロの心は壊れてしまったきり元に戻らないガラクタの心だ。
笑顔を作っても心の底から嬉しいわけではない。悲しい顔をしても心の底から悲しいわけではない。
何とか間に合わせの態度を繕っているのが薄気味悪く気持ち悪い、出来損ないの人格。
本当は他人へまともな共感もしていないくせに、さも当然のように人々の中にいる自分をクエロははっきりと嫌っていた。
それでも隙間から溢れるものを拾い集めて自分の感情を見出している。
そんな体たらくだから言葉に複雑な意味合いなど込められようもないのだ。
だから結果としてそれはとても素直な感想だった。
綺麗な髪だと思った。淡い発色の珊瑚のような色をした、艶やかな髪。
年齢相応の瑞々しさに満ちたそれを指に取る。これが義手であるのが惜しかった。
この義手は触感を情報として教えてはくれるが『触感』そのものを伝えはしない。
きっと、心地よい手触りだろうに。
「えっと………そうですね、お母さんがフランス出身なので………」
俯く梓希の声の微熱をクエロは察知できなかった。
そうなのですね、と相槌を打った。櫛を髪へと入れていく。
壊れた心に微かな温もりが宿る。手を止めずにクエロは理由を熟考し、梓希へ構うことに快楽を見出しているらしいと結論付けた。
修練で汗ばんだ身体に熱いシャワーを掛け流す。
直で顔に湯を浴びる度、魂に潤いが戻っていくような感覚が心地良い。
例え風邪を引いていても、擦り傷を負っていようと、一日二回の入浴は欠かさない。
熱い湯に浸かり体の芯が火照っていくことで、日々の喧騒や精神的な歪みを正すことが出来るのだ。
宛ら鉄を熱し、打ち直すように。湯に浸かる度に私の心は堅く、研ぎ澄まされていく。
……にしても。
先程シスターさんが漂わせたあの“気”は、一体どういうことなのだろう。
肩まで湯船に浸かりながら思案を巡らせる。
幾度とない戦いの中で、私は人から発せられる……言うなれば“剣気”のようなものを察することが出来るようになった。
打つ。突く。切る。そう判断した時、無意識に生じる微細な身体の緊張。それが“剣気”と言うべきものだ。
それは向かい合い、相対していて初めて感じ取ることが出来るものだが……あの人のそれは、まるで違った。
…………あの人は、私よりも「戦い」の事を知っている。
始めこそ雇われの聖職者だとばかり思っていたが、背後から飲み込むようなあの“気”は常人のそれではない。
きっとあの人もまた、この大阪で巻き起こっている「異変」に関わりを持つ者の一人────。
────まあ、今はまだ考えていても仕方ないか。
複雑に絡み合う思考をリセットするように顔を洗い、身体の水気を拭いて脱衣所へ戻る。
細かいことはまた明日にでも探し歩い、て…………。
「「…………あっ」」
身体と思考が一瞬硬直する。
目の前に現れたのはシスターさん。脱衣所で洗濯機から洗い物を取り出している最中のシスターさんだ。
思いがけぬ鉢合わせが頭の中を吹き飛ばし、脳内が真っ白に塗りつぶされる。
その直後、脳内のファンは高速回転。先程流したはずの汗が再びこみ上げてくるのも感じ────
「ごごご、ごめんなさいっ!!」
何故謝ってしまったのか。自分でも理解出来ぬ内に、素早くバスルームに戻り扉を閉める。
時間にして1秒にも満たない逡巡の間だが……それでも私の精神を乱すには十二分な衝撃を及ぼし
逃げ込むように再び湯船に飛び込むと、顔を沈めて無音の叫びを吐き出した。
『バスタオル、ここに置いておきますねぇ』
扉越しのシスターさんの言葉すら、今の私の耳には届かない。
俯いた先の水面には、上がる直前の倍は紅潮した私の顔が映し出されている。
この頬の上気も水面を揺らしてしまいそうな心臓の鼓動も、全ては長風呂で上せたせい……だと思いたい。
ぶくぶくと音を立てて弾ける呼吸。伴って生じる、今の心境を表すかのような複雑な波紋。
……見られてしまったただろうか。それとも、素早くドアを閉めたから見る間もなかっただろうか。
後者であることを強く願う。そう思いこんでいなければ、この緊張が解けることはない。
暫くした後、私は脱衣所に人が居ないことを確認してから素早く体を拭き、パジャマに着替えて自室へと戻った。
…………お風呂上がりなのに悶々とした気持ちのままなのは、初めてだ。
夜更け。ベッドの中で数時間前の出来事を思い返す。
いや、出来ることならば思い返したくない事ではあるが……ふと一つの疑問が思い浮かんでしまったのだ。
シスターさんの“気”は並々ならぬものである。
明確にその“気”を向けなくとも、ある程度武術を嗜む者であれば独特な気配を感じ取ることが出来るだろう。
事実、修練中のあの一件以前からシスターさんに対しては……普通の人とは異なる雰囲気を覚えていた。
けれど、あの時はその気配が微塵も感じられなかった。“気”のみならず、普段の気配すらも存在しなかった。
言うならば気配を殺していたかのように────彼女という存在に気が付くことが出来なかった。
“気”で相手を飲み込むだけに留まらず、逆に“気”を完全に消すことも出来る……?
だとすれば。あの人は私に悟られぬように動くことも出来るはずだ。先程の一瞬のように。
例えば…………そうだ。こっそりと抜け出した私を、尾行して監視することだって………………。
……そんな私の曖昧な推理は、迫り来る睡魔の中に掻き消えていく。
きっと起きてシャワーを浴びれば消えているような泡沫の思考。それでも想起せずには居られなくて
未だ火照りの治まらない逆上せた身体を丸め、蹲るようにしてベッドの中へと潜り込む。
…………シスターさん。あの人への謎は深まるばかりだ。そして、その謎と同じくらい……私は、あの人に「興味」を抱いている。
いつかこの大阪の「異変」を突き止め、あの人の謎も明かして見せる。
微睡みの中で肥大化した“夢”を心の中で反芻している内に……いつの間にか、眠りの中の“夢”へと落ちていった。
結論から言うと、その日の朝稽古は非常に有意義なものになった。
瞳を閉じて昨日を思う。シスターさんから発せられた“気”を回想する。冷静になって解読する。
剣………とは、違う気がする。もっと重い感じ。身が竦むほど大きな岩の塊を投げつけられるイメージ。
洪水の大瀑布のような、私をどうしようもなく飲み込む巨大で圧倒的な存在感。
だが虚像の輪郭さえくっきりと浮かべばシミュレーションはできる。
受けるのは論外。例え握るのが真剣だろうと私ごとぽっきり折られる。躱すか、いなすか。
重厚ではあったが鈍重の印象は無かった。簡単に反撃させてはくれない。ならどうすべきか。
もちろんシスターさんを敵視しているわけではない。むしろ現状では唯一頼れる味方といってもいい。
ただ私の中で彼女が只者ではないことは確信となりつつある。きっとあの“気”は本物だ。稽古の相手としてはこの上ない。
今までにない仮想敵を設定しての素振りは驚くほど身が入った。自分の置かれた状況をも忘れるほどに。
そして励めば励むほどシスターさんへの「興味」はむくむくと膨れ上がっていく。
どれほど強いのだろう。どんな道のりを歩いてきたのだろう。───何者なのだろう。
けれど汗まみれで稽古を終えてみると洒落にならない問題が浮上する。
それはこの非日常にあってどうしようもなく日常的な支障だった。
「服、足りないな………。他のものも………どうしよう………」
シャワーを浴びて風呂に浸かろうと脱衣所を目指しながらぼそりと呟く。
まさかこんなことになるなんて思っていなかったから服や日用品の間に合わせが足りなくなってきた。
制服と剣道着と、あとは寝間着くらいしか持ってきていないのだ。稽古のたびに替えることを考えると下着も不足している。
他にも1日や2日程度ならば無くても無視できるものがここに来て気になり始めていた。
「誰もいないお店でお金のこと気にするのもしょうもないけど、かといって泥棒するわけにもなぁ………」
勝手に持っていくのは私の常識と良心が認め難い。だが背に腹は代えられない。
仕方ない。お金と一緒に一筆書いておけば支払ったことになるだろう。幸い手持ちはもしもに備えて両親が持たせてくれた分がそれなりにある。
すべきことは“戦い”の痕跡の捜索と調査だが、加えて生活に必要なものを揃えられるお店探しも並行することにしよう。
今日の探索の予定を頭の中で組み立てながら脱衣所の扉を開い、て………。
「「………あっ」」
瞬間、私の中でぱちんと音がした。ブレーカーが落ちた音だった。
1度あったことは2度目もある。なら3度目もあるのだろうか。私には分からない。
だが少なくともシスターさんはそこにいて、そして昨日よりも状況は悪化していた。
修道服を着ていないシスターさんを私はその時初めて見た。というより、何も着ていなかった。
真っ白な裸身が脱衣所の電灯によって照らされ、あたかもシスターさん自身が輝いているようだった。
その身体を下着が包んでいる。黒である。あまりにも黒でありブラックであった。肌とのコントラストが潮目のように境界を際立たせて優勝していた。
レースのついた大人っぽい下着だけでも破壊的なのにシスターさんは更に得物を身に帯びていた。
ガーターベルトである。14年と少し生きてきて初めて見た。ガーターベルトである。
黒いガーターベルトが真っ白なニーソックスを吊っていた。下腹を覆うレースも太ももを這う吊り紐も人を惑わせる悲しき兵器だった。
核弾頭である。幻の不発弾はここにあった。放送はやっぱり嘘じゃなかったのだ。
昨日にみたいに咄嗟に謝るとかそういう次元にない。私はただぽかんと口を半開きにして見惚れてしまっていた。
頭の中はまさにリオのカーニバル状態だった。行ったことないけど。
「あらら。もしかしてこれからアズキさんも使います?」
「え、あ、はい」
何を言っているんだろう私。他に言うべきことがあるんじゃないのか。
謝って脱衣所の扉を閉めるとか………ええと、謝って脱衣所の扉を閉めるとか。
呆けてロボットみたいな返事しかしない私に対し、シスターさんは気にするでもなく名案を思いついたかのようにぽんと両手を合わせて言った。
言ってしまった。
「あはー。私もこれからシャワーを浴びようと思っていたのです。
一緒に入りませんか? 汗をかいたままでいると風邪を引いてしまいますし、ここのお風呂は無駄に広いんですよ」
「え゛」
何を考えてこんな設計にしたんですかねぇ、分かりませんねぇ、とのんびり答えるシスターさん。
対する私はというと頭の中のブレーカーを上げようと試みるのだが何度やってもうまくいかない。
どうなっているんだ。剣道の修行で鍛え上げてきた鋼の精神はどこに行った。まさかこんな時に限って有給申請してリオに旅立ってしまったのか。
そうこうしている内に私の手首は半裸のシスターさんに優しく握られてしまい、ここに命運尽きたのである。
このお風呂場が一般的な規模のサイズであったなら、私の理性は蒸発していたかもしれない。
辛うじて保たれた理性を繋ぎ止めるのは、43℃という熱めの温度設定と家族風呂もかくやといった広さの風呂場だ。
シスターさんに促されるがまま服を脱ぎ、汗を流して湯船の中へ。
シャワーを浴びる、という言葉通り、シスターさんは二つ設けられた洗い場で湯をかけ流している。
考えてみればシスターさんは外国の方だ。日本では一般的な「湯船にゆっくり浸かる」という文化に馴染みが薄いのかもしれない。
……そもそも、これまであの人に関するパーソナルな情報について関心を持っていなかった。
落ち着いたアッシュグレーの髪や流暢な日本語も相まって、別段意識を向けることはなかったが……。
穢れ一つ無い、純白とも言い換えられる肌が網膜に焼き付けられた事で認識が改められた。
そしてその肌が、四肢が、2m以内という至近距離に未だ存在しているという事実に思考が沸騰しかける。
本当は駄目だけど……良くないことかもしれないけど!もう一度だけ確かめたい!
そう荒ぶる心を抑えつけ、曇ガラスより透けて見える夜空と水面の波紋を見つめ続ける。
シスターさんが洗い終わるまでは湯船から上がることも……視線を移すことすら許されない。
…………誰かとお風呂に入るなんていつ以来だろう。
温泉のような大浴場ならともかくとして、こういった「お風呂場」に複数人で入るのは本当に久しぶりだ。
親族でない人となれば初めての経験である。となればこの動悸が冷めやらないのも仕方のないことだ、うん。
あ、駄目だ。思考が一段落すると余計な雑念がこみ上げてくる。
真珠のような白と黒のコントラスト。創作の世界でしか見たことがないような装飾品。
ガーターベルトって実在するんだ。妖艶の象徴とも言えるそれを、聖職者であるあの人が付けていたという事実もまた混乱を齎す。
いやそもそも、こんな思考を巡らせる事自体いけないことだ。当の本人が直ぐ側に居るというのに。
目を強く瞑り気持ちを押し殺す。今はただ心頭滅却、純粋に広い湯船で精神を落ち着かせて────
「あらら。結構熱めですねぇ。ここまで熱いとすぐにのぼせてしまいそうです」
────思い掛けず近くから聞こえたその言葉に、思わず目を開く。
水の滴る肌。先程よりも抑えめで、しっとりと艶めかしく輝く淡い白。
タオルの隙間より覗く、濡れて纏め上げられた濃い灰色の髪。
2mという距離を隔てていたことで保たれていた安寧が、またしても一瞬で拭い去られる。
距離にして……どれくらいだろう。最早目測すら覚束ない。ただ、手を伸ばせばすぐに届く距離であることは確かだ。
湯船に足を伸ばすも湯の温度に驚くシスターさん。その姿が門前に、目の前に映し出されて
その姿に、先程存在していたコントラストは見られない。
一面の白。その中で一点映える青い瞳。湯気の立ち込めるお風呂場に霞むその姿は、先程の姿とはまた異なる美しさを漂わせている。
それが何を意味するのか。白しかないということは、つまり。黒色が消えているということは、つまり。
この薄い湯気の中で目を凝らせば、つまり────。
……その日。私は人生で初めて、お風呂場で気を失った。
「………よく眠っているようですね」
客間の扉を僅かに開いたクエロは内部の様子を確かめてそう呟いた。
梓希が全身に負った傷は彼女の想像以上に消耗を強いている。傷を治すのにも体力がいるのだ。
深い眠りについているのを確かめたクエロは扉を閉じ、その足で音もなく廊下を進んでいく。
客間を覗いていた時に浮かべていたほんの微かな唇の綻びはその時にはもう無機質なものになっていた。
やがて裏口の扉を開いて外に出た。5月になったとはいえ夜半の風はまだ肌寒い。
教会の裏庭は静寂に包まれている。月光の青褪めた色に染まって寝静まるそこは平穏そのもののように見えた。
数歩進み出たクエロはふと身体を軽く沈み込ませ、膝を撓ませる。
そして、そのまま後方へふわりと飛び退った。
まるで重力を無視したかのような、柔らかく孤を描く後ろ宙返り。
ただそれだけで教会の屋根の上へと到達するのだから明らかに人間業ではなかった。
着地と同時に軽くステップを踏んで体勢を整えたクエロは何でもないことのように教会の三角屋根をすたすたと登っていく。
掲げられた十字架のあるあたり、教会の屋根の頂点へ至ったクエロはそこから遠景を見渡した。
「ああ、今夜も」
囁きは夜風に乗って消えていく。
クエロの目には遠い街の一角で轟と炎が燃え盛ったのが見えていた。
続いて大きな爆発。周囲の建物が破壊されて瓦礫が弾け飛ぶのが立ち上る炎の明かりによって見えた。
彼方とはいえ、これだけ派手に“戦い”が起きていてもこちらまで一切音は伝わってこない。
───この聖杯戦争において、クエロはあくまで聖堂教会から送り込まれた監督役。名代に過ぎない。
全体を統括する立場ではあるがそれぞれの役割を持った聖堂教会の人員が数多く裏では動き回っていた。この馬鹿騒ぎの隠匿のために。
聖堂教会は時代遅れの魔術協会と違い科学に対しての抵抗感など無い。
アナログな手段は当然として第八秘蹟も用いられ、そしてサイバー関連に長けた信徒たちも力を尽くしている。
あれだけ目立つことが起きていてもこの街の外からは認識されない。『つい見逃して』しまう。
SNSなどにも写真や動画が出回ることはない。万が一にも針の穴を抜けた証拠が出回るかもしれないがそれもすぐに消される仕組みになっている。
全ては無かったことになる。しかし───
クエロは足元、梓希が眠る部屋のあたりをちらりと見遣った。そして溜め息をつき、教会の屋根を蹴って重力に身を任せた。
とうとう死ぬのだと。その瞬間まで来て、ようやく悟った。
シスターさんは“気”を放つことができるのと同じくらい、ほぼゼロなまでに“気”を殺すことができる。
それは私の中でおそらく間違いないという認識に至っていた。
まだ私の立場ではその残滓をも掴めないくらい武術の高みにあるとか。私の想像もつかないような修羅場を潜っているとか。あるいは、エトセトラ。
どちらにせよ、剣道という在り方に身を捧げてきた私よりも「戦い」に染まった生き方をしてきたはずという予想は大きく外れてはいないだろう。
まるで本当に命の遣り取りを繰り返してきたみたいだ、と理性が言う。本能が言い返す。みたい、ではない。本当にそう振る舞ってきたはずだと。
そういう人なのではないだろうか、という疑問は九割方はきっとそうだろうと固まっていた。
発することについて操れる。でも感じ取る方は鈍感であろうというのはあまりに虫が良すぎる話だ。
私がいつどんなタイミングでこっそり教会を抜け出そうとしたって、彼女は平気でそれを察知しているに違いない。
昨日の朝の街への探索がそうだった。誰の気配も感じない、というのが今となっては逆に怪しかった。
誰かの気配と足音がした後に、それらがさも存在しなかったかのようにいなくなったことも。
ならば逆転の発想だ。教会にいては動きを察されてしまうならばそもそも当人が教会にいなければいい。
私は待った。辛抱強く待った。シスターさんが夜更けにこの教会から立ち去っていくのを。街の方へ歩んでいくのを。
可能性に賭けた。そうするかもしれないという可能性に。そして賭けに勝った。
窓に映ったシスターさんの小さくなっていく後ろ姿を見て思わずガッツポーズを固めてしまったくらいだ。
彼女が十分に離れたのを確認してから、意気揚々とその後を追いかけたのだ。
シスターさんはこの大阪における「異変」へかなり深いところまで食い込んでいるはずだ。
きっとあの人は私の知らない多くを知っている。昔から勘に関しては鋭かった。彼女を知れば、おのずと今大阪で起きていることも分かる。
だから彼女の行く先には、きっと「何か」があるはずだ。そんな勘を信じ切っていた。
胸に宿るのは恐ろしさ。それを上回る好奇心。興味。高揚。その他、言葉にできない感情の数々。
行くな、と本能が叫び、行こう、と理性がそれへ麻酔をかけていた。
───私の読みは正しかった。そして、その時点でどうしようもなく詰んでいた。
辿り着いた。辿り着いてしまった。
私は数日を費やしてようやく“戦い”へと至った。至ってしまった。
シスターさんの後を追うこと数十分。夜闇に包まれる大阪の市街へと辿り着いた私へ向けて大きな音が響いてくる。
コンクリートが勢いよく砕け散る、発破の現場でしか聞けないような騒々しい音。
「───」
だが、私はその破砕音へ向けてまるで操られるようにふらふらと歩き出してしまっていた。
正直このあたりの記憶は朧気にしか残っていない。残っていないのが心を守ろうとする私の防衛本能の働きだろう。
この破壊の協奏曲にとあるサーヴァントのカリスマというスキルの効能が乗っていたのは後から知った話だ。
理性も本能もどうでもいい。『この音のするところへと向かうべきだ』という感覚は殆ど洗脳に近かった。
さらに言えば『この音と共に死すならばそれは至上の栄誉である』とさえも。
だからビル群を抜けた先の広場にあったその存在を見た時───私は理由も分からず不覚にも涙を流していた。
かのお方はゆるりと宙に浮いていた。一振りの剣を携え、柔らかい微笑みと共に遍くもの全てを睥睨する。
現代人からすれば奇天烈な格好は、その神々しさに比べればあまりに辿々しく稚拙な常識だった。
視線の先に何かいたようだが、心を囚われていた私にはその人影しか目に映らなかった。
その在り方、その微笑み、全てに感動していた。自分の人生の全てがひどくつまらないものに思えた。
あれだけ執着していた剣士としての在り方さえ目に映った人影に比べればくだらないものに思えた。
宙に浮く方の唇が少しだけ動く。それは欠片さえも自分に向けたものではなかったが、それを目の当たりにしたことだけでも恐悦至極に感じた。
そうか。死ぬのだ。これからあの方が剣を振るい、その余波で私は死ぬ。なんて素晴らしいことだろう。
あの方の手にかかって死ぬならばこれほど最上の在り方はない。だから死ぬべきだ。よし、このまま死のう。
………正気ならば絶対にあり得ないそんな思考を私は受容し砕け散ろうとしていた。
宙に浮く人影に比すれば戯れのような敵意を向けて抗しようとする地上の人々のことなど目に入りもしなかった。
ただ、そのサーヴァントに殺されるために頼りにしていた竹刀さえ抜かず自分の終わりを迎えようとしていた。
凝視していたそれが剣を振り抜くのよりも───私の襟首を“何か”が捕まえるの。
時間にしてコンマ5秒ほど。だとしても、後者のほうがギリギリ早かった。
後はジェットコースターだ。
何かを思う暇は無い。襟首を掴んだそれが物凄い勢いで私を引っ張る。
直後、火薬庫へ火が点くような激烈な破砕音が轟いたが、その音が私を捕まえて五体を引き裂くよりも襟首を掴んだものは僅かに早かった。
空中に浮きながら引き寄せられるまま吹っ飛ぶ私はいつまでも空中を引っ張られ続けるその勢いからようやく状況を知った。
私を捕まえて引っ張るものが、破滅の余波から逃れようと必死で後退しているのだ。
私を引っ張っているものを目で辿った私はようやくおおよそを理解した。
───ああ、なんということ。
───どうしてあなたが私を引きずっているんですか。
───どうしてあなたの腕がそんな風に伸びているんですか。肘から分かたれて、鎖で繋がって、鎖の先の腕が私を掴んでいるのですか。
───こんなの人間の腕じゃないじゃないですか。アニメに出てくるような、ロボットのロケットパンチみたいじゃないですか。
───こんなの人間の脚じゃないじゃないですか。風よりも速く駆けるその脚の出力はとうに人間らしさから離れているじゃないですか。
───ああ、知っていたけれど。きっと、知っていたけれど。
───あなたは、まともな人間じゃない。
「───も~。アズキさん。迂闊に出歩いてはいけませんって言ったでしょう?」
いつの間にか私は何処かの公園の野原に降ろされていた。
私を襲おうとした猛威は………存在しなかったわけではないらしい。こうして耳に轟音の名残が届いている。
視線を戻す。じゃらじゃらと金属音が響いている。そこで私ははっきりと私をここまで連れてきた者を見た。
肘から先が鎖で繋がった腕がどういう原理か巻き取られている。末端まで至った腕がばちんと繋がり、ここ数日で見てきたものと同じカタチになった。
接続部分を何でも無いことのように見やるシスターさん。明らかに自然な人間ではない。私が思わずしたことというと───
「───っ」
「………っ! わ、わわ。どうしたんです?」
震える膝を打って、よろめく身体を手繰って、その人の身体を抱きしめることだった。
さっきまで何を考えていた? 私らしくもないこと、いや無理やり私らしくさせられたことを考えさせられていなかったか?
恐ろしかった。それがあまりにも恐ろしくて、ただ無性に温もりが欲しかった。
「あ、ぅあ」
胸へ埋めた顔から涙が溢れた。情けなく涙を流すなんて本来なら許せるはずもない。
でも、無理だ。堪えられるわけがない。心がひび割れてその隙間から漏れてしまっている。もう止めようない。
失格だ、私は。でも腕を伸ばし、脚を駆って、人間離れした性能を発揮した彼女の胸は見た目通りにとても温かかった。
「あ、ああ。………あぁぁぁ………っ! クエロ、さんっ、私、わたし………ッ!」
「………。いいんですよ。もうちょっと後にしましょうか。ね。アズキさん」
こんな時にも彼女の言葉は薄っぺらく、そして優しすぎて、私はどの涙を堪えるべきか悩んでしまうのだった。
先程の姿が白と黒のコントラストで彩られたアートであれば、今の姿は淡い色調の映える水彩画か。
白い肌にほのかな桃色を帯びる唇、逢魔時の暮れた空を思わせる青色の瞳。それらが織りなす端正な顔立ち。
これより下には目を移せない。映してはいけない。込み上げる好奇心を鉄の理性で繋ぎ止める。
湯船が比較的広く、肌と肌が触れ合うような距離でなかったのが幸いした。
人一人分の間を空けて湯に浸かる二人。私はと言えば、水面から下に目を向けぬように視線を泳がせている。
そんな私の様子を怪訝に思ったのだろうか。シスターさんは少し首を傾げると、空いていた距離を詰めて私の側へ。
……えっ?移動に伴って生じた水流を肌で感じる。直ぐ側に人がいる、という感覚を身を以て味わっている。
突然のことで思わず驚きの表情を浮かべてしまう。そんな私の顔の側まで、シスターさんはその瞳を近づけて
「……随分顔が赤いですねぇ。少しお湯の温度下げましょうか?」
澄んだ瞳の、その奥まで見えてしまいそうな距離。
近い。逃げられない。私の背後にあるのは壁、顔を仰け反らせることも後退することも難しい。
そしてシスターさんは屈んだ状態のまま、私────の横にある蛇口へと手を伸ばす。
壁際で、顔を迫らせて手をつく形。この構図に見覚えがある。そうだ、これは巷で噂の……壁ドンなるシチュエーション。
顔だけでなくいろいろなものが近い。吐息の音すらも聞こえてきそうな至近距離。
この一瞬がずっと続いてくれたら、なんて。
沸騰した思考回路が脈絡のない事を……或いは、理性で誤魔化された本心を露わにする。
「これ以上」はなくていい。この一瞬を切り取って、何度も何度もアルバムを開いては見直していたい。
不思議と鼓動は落ち着いている。けれど体温は急上昇、頬の火照りも治まらない。
温度を1℃上げてしまいそうなほどに上気する身体。至福のままに意識が飛びそうに────
あっ。駄目だ、このままだと不味い。脳内に掛けられた最後のアラートが鳴り響く。
「あ、あのっ…………ち、近い……です」
思考を断ち切るように目線を逸らし、絞り出すように言う。
私の言葉を受けてシスターさんは一瞬驚いた様子を見せ、改めて二人の距離に気が付くと
その白い肌をほのかに赤く染めて、元いた位置から少しだけ離れた場所に座り直す。
…………少しだけ勿体なかったかも。
先程よりも2℃ほど高まった湯船に浸かりながら、私は最後の未練を反芻するのだった。
誰かに手を繋がれて帰るなど幼い頃以来だった。
シスターさん………ううん、クエロさんがぐずる私のとぼとぼとした歩みに歩調を合わせてくれた。
5月の真夜中の風はまだ冷たく、人っ子一人いない街並みはまるで影絵で作られた出来損ないのよう。
月の光で不気味に濡れたアスファルトを踏んで歩いていると、まるで世界中の人間が死に絶えて私たちだけが生き残っているかのようにうら寂しかった。
遠く離れた私たちの背後ではまだあの“戦い”が続いているのだろうか………。
赤く腫らした目でクエロさんのその後ろ姿を見ていると、ふと想起されるものがあった。
───母だ。この人にはどこか母の面影がある。
私はいつも集中する時に決まって浮かべるイメージがある。冷えた鉄、煌々と燃え盛る炉。
鉄を焚べ、鉄を打つ。繰り返し鍛えて強靭な刃に作り変えていく。私がそうだし、おそらく父にも似た気配がある。
だから私の妥協を許せない精神性はたぶん父譲りだ。良くも悪くも父に似ているとたまに言われるのはそういうことなんだろう。
けれど母は私たちとは違った。あの人は熾火だ。
外からはほんのりと赤く色づいているだけに見える。分かりやすく燃えることは無い。
だが芯の部分は高温の炎で真っ赤に色づいていて、しかも消えずにいつまでも熱を発し続けている。
近くまで寄ってみて初めて知るのだ。それが物凄い温度を破裂させないまま緩やかに保ち続けていることに。
あれだけ厳格な父がいざという時に母に逆らえないということは何度もあった。
表面上は穏やかながら、決して曲がらず凛としていて、惚れ惚れするほどに気高い。
クエロさんの背中にはそんな母の姿が重なって映った。
ああ、そういえば物心ついた頃にこうやって手を引いて家まで連れて帰ってくれたのもお母さんだったっけ。
先程は万力のような途方もない力で私の首根っこを掴んでいた指は、こうしてみるととても繊細だ。
ほんの少し力を込めてその指を握り返した。ややあって、クエロさんも少しだけ強く握ってくれた。
特に何も語りかけず黙って歩いてくれているのが泣き疲れた心に優しかった。
人の肌の温度を全く感じない無機質な指。人間の肉ではできていない腕。きっと作り物の身体。冷たさ が確かにそこにはあったのだ。
けれど私の指はそこから心強い安心感を覚えていた。
あつい。纏わり付くような熱気が室内に立ち込めている。
じっとりと汗を帯びたパジャマを拭いながら、現在時刻を確かめる。
カーテン越しに差し込む日差しが指し示したのは「9時」の時計…………やや寝過ごした。
よもや本州の初夏がこれほどまでに暑いとは。
現在の気温は28℃。最近では札幌でもこのくらいの気温まで上がることはあるが、気温以上に蒸し暑い。
湿気が影響しているのだろうか?それとも、この部屋に扇風機以外の冷房器具が用意されていないのが原因か。
どちらにしてもこの暑さは堪える。汗が止まらない。頬を伝うそれを拭いながら、重い足取りで食堂へ向かう。
酷暑が続けばそれだけ替えの服が必要だ。仕方ない、今日あたりにでも衣装を買いに────
「おはようございます、アズキさん。昨夜は随分と暑かったですねぇ、ちゃんと眠れましたか?」
「ふわ……おはようございます。寝苦しくてあまり…………えっ」
寝ぼけた目をこすり、シスターさんを見る。
いつも通りの黒基調な修道服に身を包んで……あれ?
食卓に座るシスターさんの衣装がどこか違って見える。私はまだ寝ぼけているのか?
この視界情報が間違っていなければ、それか私の認識が狂っているのでもなければ……シスターさんは、俗に言う「メイド服」を身に着けているようにみえる。
いや、確かに着てるな。何事もないような雰囲気も相まってつい見逃しかけたが、間違いなくメイド服を着ている。
「……あの、シスターさん。その服って……」
「あはー。この衣装ですか?クローゼットの中に何着か掛けられていたんですよねぇ。
ここの神父さんの趣味なのかはわかりませんが……ちょうどいいサイズだったので試しに着てみました」
なるほど。なるほど?
考えてみればシスターさんも、元々この土地の人ではなく海外から派遣された人員であるという。
となれば衣装も持ち込みで、私のように服の洗濯が追いつかないという事もあるのだろう。
合点が行った。何故メイド服がこんなところに?という疑問に関しては、恐らく有益な答えが得られそうにないのでスルーする。
にしても、この種の服を違和感無く着こなせているのは流石だ。
クラシカルなものでなくフレンチなフリフリメイド服であっても、それが正装であるかの如き気品を漂わせている。
……実を言えば私も去年、文化祭でメイド喫茶を出店した時に着た経験があるのだが……髪色も相まってザ・コスプレといったような有様になってしまった。
そんな事を考えながら食卓に着くと、メイドさ────シスターさんが少し遅めの朝食の準備を始める。
今日の朝ごはんはなんだろう。気がつけば私の中で、毎日の食事が日々の楽しみになって────
「どうぞ、カレーです」
カレー。
差し出されたお皿には、若干の赤みを帯びたカレーが盛り付けられている。
……カレー?予想していなかった献立に思わず思考がループする。うん、このスパイシーな香りは間違いなくカレーだ。
一般的なカレーと比べて、ルウの粘度が控えめだ。
スープとルウの中間。ライスの間をすり抜けていく程度の水気だが、完全な液体というほどのものでない。
具は大きめにカットされたレンコンやサヤインゲン、そして牛肉。
一見すれば「家庭のカレー」とはかけ離れた、本格的なカレー屋で作られたような見た目である。
そのクオリティもあって二重に驚かされる。これ、いつの間に作ったんですか。
「……い、いただきます」
しかしこの赤色に若干の躊躇いを覚える。
先日、想像を遥かに超えた辛さの麻婆豆腐でノックアウトされたばかりな私にとって……この赤さは、怖い。
口内の傷も癒えていて多少の辛さであれば耐えられるだろうが、最悪傷口が開きかねない。
恐る恐るスプーンを口に運ぶ。
カレー自体は好物の一つだ、よほどの辛さでなければ問題はない─────っ。
「………………こ、これは」
美味しい。とても美味しい。
見た目通りスパイシーな香辛料の風味でありながら、ただ辛さだけがあるのではなく
それを包み、刺々しさを緩和させる爽やかな風味……レモングラスの香りが良く活きている。
唐辛子をベースとする辛味と柑橘系の酸味に、もう一つ。このコクは……ココナッツミルク?
辛味と酸味の相乗効果の中に甘みというエッセンスが加わることで、奥深い味わいを強く醸し出している。
遅れて広がるのは牛肉の旨味。想像していたカレーよりもエスニックな風味だが、途轍もなく美味しい。
勿論見た目通りの辛さもある。一通りの味が過ぎた後、一足遅れて辛さが駆け込んでくる。
しかしそれは突き刺すような「痛み」でなく、辛さという確かな「味わい」だ。
辛い、辛いが美味い。口に広がる辛さを打ち消すべく、もう一口が食べたくなる。
初夏の蒸し暑さすらも吹き飛ばしてしまうような爽快な辛さ。
同じ汗には変わりないはずなのに、寝起きの汗とは比べ物にならないほど爽やかな汗が込み上げる。
「……ごちそうさまでした。シスターさん、これ凄く美味しいですよ!」
「あはー。そうですか?そう言っていただけると作った甲斐がありますねぇ」
ふぅ、と一息零し手を合わせる。
カレーに対して名残惜しさを感じたのは久しぶりだ。
手作りでこれほどのクオリティを出せるものなのだろうか?改めてシスターさんに対しての印象が塗り替えられる。
しかし……この辛さを乗り切った代償も大きい。
具体的には汗が凄い。爽やかさこそあれど、肌に張り付く程まで濡れたパジャマは無視できない。
今すぐにでもシャワーを浴びて着替えたいところだが、生憎制服は全て洗濯に出してしまった。
どうしよう……流石に今の状態で街を出歩くのは恥ずかしい。例え街中に人が居ないとしてもだ。
……悩む私の表情に気がついたのだろうか。
シスターさんが少し考えた様子を見せると、頭の上に電球を浮かべたような閃きの表情で
「アズキさんも替えの衣装が足りないんですか?それなら────そうですねぇ。まだメイド服は余ってますし、一緒に着てみません?」
「…………えっ」
数時間後。
昼下がりの大阪にて、某衣装ブランドの袋を両手に持ったメイド服姿の少女二人が目撃された。
二人を撮影した女子大学生(22)曰く「アッシュグレーの子はニコニコしてたけど、金髪の子は燃えそうなくらい顔真っ赤にしてた」……とのこと。
「きゃーーーー!」
「うぉぉぉっ!?」
いつかのエルメロイ教室で、割とよく見られた光景。
不幸体質の少女が階段から転げ落ち、たまたま下にいた男子生徒にフライアウェイしていた。
「むっぐ…!んーー!」
当たりどころが良かったのか悪かったのか、どしんと音を立てて地面に倒れ伏した頭の直上には、少女の尻がみっちりと乗っていた。
「……あっ、ごっごめんなさいヒューゴくん!すぐ退きますから…!」
少女、ディオナが再び体勢を崩しそうになりながらもヒューゴの顔面を解放すると、赤面しきった顔のヒューゴはすぐに叫んだ。
「お前な…!いつもどうせ脱げるからって最初から履いてないのはどうなんだ!?」
「えっ…ええっ!?な、何の事ですか…?」
「下着の話だ下着の!ぱ・ん・つ!一応スカート越しとはいえなぁ、俺になんつーアダルトな不幸をぶちかましてんだお前は!こう…もっと自分を大事にしろ!」
「え、えぇっ!?そんな…今日は確かちゃんと履いて…あれ?ない…?」
自分のやった事を認識したのか、みるみる内に顔が赤く、そして青くなるディオナ。
「うぅ……こ、こんなことをしてしまうなんて…。……もしかして、私、神様に…」
「おい待て、その考えはまずっうぉぉぉぉぉ!?」
魔術の効果が薄まった瞬間、校舎のありとあらゆる部分から様々な崩壊が始まり、再び絶叫が響いた。
──なお、結局この件については、ディオナが下着をうっかり忘れたという結論で片付いたのだが、ロードとヒューゴの胃痛は暫く止まなかったということは最後に記しておく。
「は~あ、今日もボスを殺せませんでした。残念ですねェ」
『何、この程度で殺されては君のボスを名乗るのには不足だからな』
用意した手の内を出し尽くしてなおBOSSを殺せず、両手を腰に当てて息をつくコロシスキー神父。
一方、ノイズ塗れの姿で彼の前に立つBOSSには(そもそも顔は見えないが)疲労の色が見えず、その両手にはコロシスキーが放った聖書の頁が一つ残らず指で挟み取られていた。
『しかし、今回の聖書投げは見事だった。頁速もそうだが面制圧の綿密さに成長を感じたぞ』
「それを受け止め切ったボスに言われるのも複雑ですねェ~」
落ち込んでいる…ように見えて既に切り替えてBOSSを殺す方法の考案を始めているコロシスキー。
そんな彼の脳裏を読んでなお、BOSSは変わらず不敵に笑う。
『安心しろ。君に殺される気は当然無いが…君以外に殺される気も毛頭ない。
これからも精進するといい。私はいつでも、君の挑戦を受け入れる』
「…んもォ~ッ、殺し文句が上手いですねェボスったらァ~ッ!」
照れ隠しにヘッドショットを仕掛けるコロシスキーと、それを軽く避けるBOSS。
なぞのそしきで日々繰り広げられる、ありふれた何気ない一幕であった。
「なぁんだ。そんなの食べればいいじゃないですか~」
………などと、私のぼやきにクエロさんがあっけらかんと答えたのが10時頃のこと。
それから2時間後。唖然とする私の目の前でクエロさんがちょっとした無茶をやらかそうとしていた。
「ちょ………いいんですか!? こんなことして!?」
「いいんじゃないでしょうか~。冷蔵庫こそ稼働しているとはいえ、食品はそう遠くない内に駄目になってしまいますし」
さもまっとうなことを言ったとばかりにあっけらかんとしたクエロさんが冷蔵庫を物色する後ろ、フライヤーがぐつぐつ音を立てている。
小さな串カツ屋のフライヤーである。先程クエロさんが油を注いでガスコンロへ手慣れた様子で火を入れてしまったのである。
言うまでもなく不法侵入である。店に誰もいないのだから仕方ないとばかりに、あまりにも堂々とした我が物顔なのである。
鍵が開いているのをいいことにずかずかと無人の店舗へ乗り込んだクエロさんはやりたい放題し始めちゃったのである。
はわわ、と戸惑う私の前で冷蔵庫に保管されていた食材が次々と取り出されていっていた。
適当に取り出し終わると卵と小麦粉も出してボウルにぶちまけ、バッター液を作り出してしまう。あああ、そんなにたくさん。
「わ、私ん家は前にも言った通り仏教徒なんですけどっ! そちらの神様的にこれはアリなんですかっ!?」
「あはー。対価さえ置いていけば泥棒にはなりませんよ。ほら、主がお恵みくださった糧を無駄にしたらそれこそ罰当たりです。
だから大丈夫だいじょーぶ。はぁい、じゃんじゃん揚げていきましょうね~。あ、キャベツ食べます? 日本のパブではお通しと言うんですよね」
「しょうもない! 気付いてたけど! 薄々気付いてたけどこの人しょうもないっ!
仕事以外のことになるとこの人すっごくしょうもなくなるっ! あーあー、パン粉もそんなにいっぱい出してっ!」
なんて言っている間にクエロさんは豚肉やら海老やら蓮根やらに串を通すとバッター液とパン粉を潜らせ、ひょいひょいとフライヤーに投げ込んでしまった。
途端にぱちぱちと食材が揚がっていく美味しそうな音が店内に響き出す。同時に私の空きっ腹が串カツモードへとフォームチェンジする。
もう駄目だ。串カツを食べなければ心が歪んで人間ではなくなってしまう。揚げ物ビーストになってしまう。
畜生。もう知るか。私はあらゆることを受け入れることにしてザク切りにされたキャベツをお店の秘伝のタレ(2度漬け厳禁!)につけて齧った。
くそう、美味しいなぁ。ただキャベツをタレを塗しただけなのに何でこんな美味しいのかなぁ。
………しかし、カウンターの奥で修道服姿のお姉さんが串カツを次から次へと揚げている姿は目がちかちかするほど似合わないなぁ。
「うん。ちょうどいい頃合いですね。はい、揚がりましたよ。
えーとぉ、これが豚でこれが椎茸、これが海老で、あとは蓮根に帆立に茄子………それからぁ」
「手当たり次第に揚げたんですね! やったぁ美味しいそうだなぁ! いただきます!」
私の目の前へどんがどんがとお祭りのように盛られていく串カツたち。
最早ヤケクソだ。揚がっちゃったものはどうしようもない。知ったことか、どうとでもなれ。
私は日本人である。日本人は海老が大好きである。なので海老の串を手に取るとこれでもかとタレの入った缶に突っ込み、一口でぱくりと咥えた。
途端、押し寄せる滋味。歯を押し返してくる海老の身のぷりぷりとした弾力。タレの何重もの層となって襲い来る奥深い味わい。
そう。これだ。これが食べたかった。本当は、友人たちと。
「───………美味しい」
「あはー。そうですかぁ? どれ、私も試しに………、うん、ちゃんと揚がってますねぇ。
どんどん食べちゃってください。冷蔵庫の中にあるもの、手当たり次第に揚げてしまうので~」
揚がった茄子をタレにつけて頬張り、満足気に頷くクエロさんを後目に豚串をチョイス。
もう止まらなかった。私は腹が減っていた。うおォン、私はまるで人間火力発電所だ。
たぶん本当の職人が揚げるものからすれば稚拙な出来なんだろう。割と料理上手ではあるが、さすがのクエロさんも揚げ物調理のプロじゃない。
でもそういうことじゃない。その時の私にとってはそれはそういうことではなかった。
クエロさんが揚げていくものを次から次へと口に運ぶ。自慢じゃないが、私は物心ついた頃から激しい剣道の修練に打ち込んできた身だ。
当然物凄い体力を消耗するので常人の摂取カロリーでは到底追いつかない。必然食事で補うことになる。結果胃袋が鍛えられる。
おまけに食べ盛りだ。ご飯が炊けていないのが惜しかった。その分、まるで飲み物のようにするすると串カツは腹の中に収まっていった。
何本目だったろう。ブロッコリーの串揚げ(これがタレをたっぷり吸って馬鹿にできない美味しさ)をばりばり咀嚼しながら思った。
“私、剣道の大会が終わった後は大阪グルメを食べ尽くそうって話をしていたんです、友達と。………紅生姜の串揚げ、食べてみたかったな”
共に無人の街を歩く最中、出しっぱなしで風に揺れる暖簾を見てふと呟いたのだ。言えばクエロさんがこんなふうにしてくれるかも、なんて欠片も思っていなかった。
現在の選択を後悔しているわけではないけれど、それはそれで本来ならばあり得た未来を空想してつい口にしただけだった。
返しの言葉が『食べればいいじゃないですか』で、こうしてこのようなことになっているわけだけれども。
それでも想像をする。もし聖杯戦争なんて起きず、私は剣道大会を終え、友人と共に束の間の大阪観光をしていたならば。
優勝していたならば祝勝会だったろうし、敗退していたなら残念会。それでもきっと友達たちと一緒にお腹がはち切れそうになるまで大阪名物を詰め込んで、そして帰りの飛行機に乗っていた。
きっと大はしゃぎだったろう。きっと美味しかったろう。きっと楽しかったろう。そうやって日常に戻っていったろう。
私は日常の裏に潜む非日常のことなど露ほども知らず、再び剣道に打ち込む日々を送り、高校生に進学しても相変わらず剣道を修めて、そして………。
当たり前の日常にずっと心地よく微睡んでいたはずだ。そんな感傷をあの暖簾を見た時に覚えた。
………不意に目の前の皿へ揚げ串が差し出されて我に返った。
串に刺さって揚げられていたものは私がこれまで口にしたものとは違うものだ。纏った黄金色の衣の奥で微かに赤色を帯びていた。
クエロさんを見つめる。彼女はあの特徴的な薄っぺらい微笑みで、どこかはにかむような調子で言った。
「見つけるのが遅れてすみません。紅生姜というのは私には馴染みがなくて。お漬物を揚げるという発想に思い至るまで時間がかかってしまいました」
「───。………いただきます」
串を手にとって口にした。さくりと解ける衣の感触。ぴりりと舌先を刺激する生姜の優しい刺激。梅酢がもたらす日本人が慣れ親しんだ酸っぱさ。
揚げ物なのに油っこさなんてまるで感じない、とても軽やかであっさりとした味。食べるだけで口の中がすっきりとしてくる。
いいや。正直に言おう。名物と聞いて期待したほど美味しくはなかった。決して不味くはなかったけれど、十分美味しかったけれど、なるほどこういうものか。そう納得する程度の味ではあった。
これが年齢を重ねて油がキツくなった頃に食べればまた違う感想があるのかもしれない。プロが揚げればこの程度ではない、更に信じられないくらい美味しいものかもしれない。
だがまだ14歳の私からすればこれでもかというほど脂っこいものでも美味しく感じられる。
だから物足りなさみたいなものを覚えたかといえばそれはそうであり───そして、それらを圧倒的に凌駕する形で満足感が私の心に押し寄せていた。
つい微笑んでしまう───気遣ってくれたんだ。私のことを。クエロさんなりに。
この人は人の気持ちを慮ることについては不得意だ。いや、鈍感と言ってもいい。それはこうして共に同じ時間を過ごすようになってきて分かるようになったことだった。
型にはまった定型的な感情の遣り取りならば無難にこなせるが、より個人的で複雑なものになると判断が及ばない。横にいた私がフォローすることがあったくらいだ。
以前その理由をクエロさんは少しだけ話してくれた。
“───私は感情過多の反対、感情過小なんです。喜、怒、哀、楽。当たり前に人が感じるそれを当たり前に感じることができない───”
その時の申し訳無さそうなクエロさんを見た時の感情は、不思議と憤りだった。
どうしてあなたのような凛とした人が、そんなことでさも悪いことでもしたかのようにびくびくと怯えているんです。ちょっとくらい人の気持ちが分からないのが何だっていうんです。
私だって剣道部の後輩と意思疎通が上手く取れず悩むくらいそれは普通のことなのに、そんなことで───そんなことで、そんな辛そうな顔をしないで欲しい。
だから、そんなクエロさんがきっと彼女なりに一生懸命考えて私のことを気遣ってくれたこと自体が、びっくりするほど嬉しかった。
そこには気遣い上手では与えることの出来ない、不器用な人の不器用な気持ちがあったから。
彼女が揚げてくれた紅生姜の串揚げを、最後の一欠片を嚥下するまでじっくりと私は味わった。飲み込んでからクエロさんをカウンター席からじっと見つめて言った。
「美味しかったです。ありがとうございます」
「そうですか。まあ、そういうことでしたら。お粗末様です」
正面から礼を言ってもクエロさんは何も変わらない。次の分の串揚げの用意をし始めるだけだ。
いつもと変わらない、ただ穏やかなようでぎこちなさが薄っすら漂う返事。そこに微かな照れがあったと思ったのは私の気のせいだろうか?
追加の豚串をフライヤーに放り込みながら、ぼそりとクエロさんが呟いた。
「………次はお魚が駄目になる前にお寿司屋さんですかね」
「えっ」
───結局、あの大量のバッター液とパン粉が全部無くなるまで串揚げは揚げられ、私とクエロさんは食べまくった。
店を出る時にレジへ書き置きとともに入れられた数枚のお札は全部経費で落ちるということなので私の罪悪感は軽減されたのだった。
胸が迫る。比喩表現でなく、目の前に胸が迫る。
眼鏡のレンズ越しに、視界の全てを覆い尽くすほどの胸が門前に迫る。
これほどの距離となれば大きさなど些細なものだ。いや、それにしても大きい方ではあると思うけど。
不意に現れたそれを見て思わず呼吸が止まり────同時に、突沸を起こしたように心臓が跳ねる。
丘。双丘が唐突に目の前に現れた。
修道服というのは基本的に露出も無く、黒一色ということもあって起伏も目立ちにくい服装である。
クエロさんの……スタイルすらも包み込み抑え込んでしまうほど、修道服というものが秘める「清楚」の力は強い。
だが、今。目の前に迫る双丘は普段意識してこなかった「起伏」を明らかにして、「清楚」の力を刃に変えた。
向かい合い、胸が門前に突き出される。その一瞬だけで私の思考回路は……弾け飛ぶ寸前であった。
辛うじて理性を保っていられたのは、直前まで呼んでいた本のおかげであろう。
司馬遼太郎著「北斗の人」。北辰一刀流の開祖を主役とする作品で、物語中にて説かれた剣理の大宗がこの理性を救ってくれた。
「……どうかしましたか?」
「え、えっと……その、なんでもない……です」
それでも僅かに赤みを帯びる頬を本で隠し、そそくさとその場を立ち去る。
“それ剣は瞬速、心・気・力の一致なり”。一瞬の隙の中であれだけ心を乱されているようでは、私もまだまだだ。
心を鍛えなければ。何事にも平時で臨む鉄の精神を宿さねば。ぱんぱんと邪念を払うように、頬を叩いて自室へと戻る。
……それにしてもあの起伏。私もいつか、あれくらいのサイズ感を得られるのだろうか。
「ご主人様、アトラス院より催促状が届きました。
『速やかに組織内で匿っている番外七大兵器をアトラス院に引き渡す事を要求する』、とのことです」
『…分かった。ご苦労』
とある都市の高層ビルの最上階、都市全域が見渡せる一室。
窓の傍に立つノイズ塗れの存在…BOSSは、クレピタンから受け取ったなぞのそしき宛の手紙を読み終えると、何時ものようにふっと笑った。
『今は何もしなくていい。いや、手出しは厳禁と皆に伝えておいてくれ』
「…よろしいのですか?ご主人様が望むのであれば、わたくしの力を、」
『いいんだ』
心配そうな眼差しを向けるクレピタンの肩に優しく手を置くBOSS。
『君の力を疑ってはいない。…だが、奴らアトラス院の技術力も決して侮れるものではない。
私は組織の長、君たちの命を預かる者として、君たちの安全をできる限り保証する義務がある。
…何、安心してくれ。こちらには取って置きの切り札がある』
そう言ってBOSSは懐(本当にそこが懐かは分からないが)から取り出したのは、
凛々しく立ちながらも可愛らしい表情をした少尉の写真だった。
「…ご主人様、その…」
『おっと、間違えた。こっちだったか』
写真を仕舞い、改めて懐から出したのは一枚の用紙だった。
「それは、確か…」
『アトラスの契約書だ。私の噂にあるだろう?あれは、真実だったということだ』
割と隠していた方の秘密だったのだがな、と言いながらBOSSはその契約書を懐に仕舞う。
『もしもあちらが実力行使を図るようであれば、これを使えば交渉ぐらいはできるだろう』
「アトラスの契約書は、確か世界に7枚しかない物の筈。それをご主人様は、一員を守るために…」
『当然だ。ニナだけではない。皆、我が組織には決して欠かせぬ人材だからな。
そして当然、君もまたその1人だ』
クレピタンに顔を向けるBOSS。
『何かあれば遠慮せず言うといい。君の働きは、私にそうさせるだけの価値があるのだから』
ノイズ塗れでその表情は見えない。
だがクレピタンの瞳には、BOSSの雄々しき眼差しが視えていた。
じゃらじゃらとアパートの屋上に鳴り響く、鎖の巻き取られていく音。
終端に至ってばちんと腕と腕が接合した瞬間、「ぐえっ」と苦悶の悲鳴が上がった。
床に投げ出された人影は蹲ってげほげほと咳き込んでいたが、やがて猛然と首をもたげてクエロさんを睨みつけ………。
「い、いきなりなにすっ………ぎゃあ!?代行者!?」
………睨みつけたのだが、じろりと睨み返したクエロさんを見た途端に顔色を変える。
以前クエロさんが魔術師と教会の人間は基本的に反目する仲と言っていたのが伝わってくる反応だった。
四つん這いで地上を見ていた私はそんなふたりの間ににじり寄り割って入った。空気を読んだわけではない。というかとてもそれどころではない。
「黒野さん、怪我はありませんか!?」
「え、アズキちゃ、じゃなかったアズキさんどうしてここに」
へたり込んだままの黒野さんの正面で彼女の身体を急いで確かめる。
………良かった。スーツ姿のどこにも目立った傷はない。露出している少し浅黒い肌も煤がちょっとこびりついている程度だ。
爆発によってまるでゴム毬みたいに勢いよく吹き飛ばされていたように見えたのだけれどどうやら何らかの防御を行っていたようだった。
目を白黒とさせる黒野さんの手を取って私は語りかけた。
「私がお願いしたんです、黒野さんを助けて欲しいって」
喉まで出かけた言葉を飲み込んだような表情で黒野さんは私を見て、それからクエロさんを見上げる。
私には向けたことのないような冷たい目線でクエロさんは応じながら鼻を鳴らした。
「聖杯戦争の参加者であろうとなかろうと、魔術師などいくらお亡くなりになっても一向に構わないのですが。
ですが、まぁ。彼女はあなたがマスターではないと保証しましたし、ならば監督役として保護の義務が一応無くもない気がしますので」
「………礼は言いませんよ。私は巻き込まれた被害者というわけではありませんし、私ひとりでも逃げ切ることは可能でした」
「あはー。防御用の礼装を贅沢に使っておいて余裕ですねー。このままここから投げ落としてもいいんですよぉ?」
火花が散っていそうな遣り取りに私がおろおろしかけた頃、再び轟音が耳をつんざくように迸る。
足場にしているアパートがずしりと揺れる。5階建ての屋上にいるのに眼前の虚空を火の粉が舐めていった。
サーヴァント同士の激突がかくも恐ろしいものだということは既知であっても身を竦ませる。
冷静な態度でその余波を観察していたクエロさんは目を細めながら呟いた。
「監督役が彼らの戦いに故なく干渉するわけにもいきませんから早急に立ち退いたほうが良いですね。では仕方ありません」
その台詞の気色を耳にした私の頭の中で警告音が鳴る。メーデーメーデー。凄い既視感。今からろくでもないことが起きる。
だがそれに反応するよりも早く、クエロさんは有無を言わせない剛力で座ったままの私と黒野さんを腋に抱え込んだ。
そのまま屋上の縁に足をかける。私のげっそりとした気持ちを人に伝えられないのが残念だ。
「ちょ、やめっ、何しようとして…待って、本気!?」
「ああ、嫌だなぁ………辛いなぁ………寿命が縮むなぁ…」
荷物のように抱えられて顔を青褪めさせる黒野さん、諦念からもう微笑むしかない私。
「黙っててください舌を噛みますよ」と仏頂面であっさり言ったクエロさんは次の瞬間には縁を蹴り、屋上から飛び降りた。
「きゃぁぁぁああああっ!?」
「ひゃぁぁぁああああっ!?」
重力から解放された体内の内臓が浮き上がるこの感じ。みるみるうちに地面が近づく恐怖。
うっかり漏らさなかった私のことを私は心の底から褒めてあげたいと思った。
「むっ、焼き鳥ですか。美味しいんですよねえ、私は塩で食べようかな!」
串カツ屋での一幕。
次々と熟れた手付きで串打ちを続けるクエロさんが差し出したのは、豚バラ肉と玉ネギを交互に刺したもの。
“やきとり”だ。揚げ物ばかりでは飽きが来るということで、ここで一本シンプルな焼き串を用意してくれたのだろう。
肉であることに変わりはなく、箸休めと分類するには些か重たいものであれど、今の私は何だって食べる。
それに豚肉は好物だ。特に塩胡椒で焼いたこの“やきとり”は、子供の頃から食べ馴染んだメニューの一つである。
うん、美味しい。この大阪であっても変わらぬ味わいに思わず頬を綻ばせる。
熱い内に食べ進め、最後に残ったブロックを器用に食べ……そこで、クエロさんが驚いたような表情を浮かべていることに気がついた。
「……焼き鳥?」
それは純粋な驚きの表情。
困惑というよりは認識の齟齬、理解のための“間”が生じているような逡巡の思考。
まるでコンピューターがデータ処理に手間取って生まれたシークタイムのような、奇妙な空白が生まれていた。
……クエロさんのこんな表情、初めて見たかも。
えっ、でも“やきとり”だよね。
私は生まれてこの方、これを“やきとり”だと信じて疑わずに生きてきた。
パパもこれが“やきとり”だと言って食べていた。ママも、そんなパパの言葉を信じて“やきとり”と呼んでいた。
同級生も、先生も、それどころか道すがらの居酒屋に掛けられた看板にだって“やきとり”としてこの串の写真が載せられていた。
だからこれが“やきとり”でしょ?そうだよね。……なんか、クエロさんに驚かれると自分が間違っているのかと疑いたくなる。
後日。改めてその名称の違和感を確かめるため図書館に出向いたところ。
豚串を“やきとり”と呼ぶのは北海道独特の文化で、それも一部地域に限られたものであるらしい。
…………思いがけぬカルチャーショックに気を失いかけた。そうなんだ、“やきとり”って……焼き鳥じゃなかったんだ。