私は今、クラゲに囲まれている。
仄暗い水槽の中に浮かび光を受けて漂う透明な命の群れは、静謐な宇宙に輝く星々を彷彿とさせる。
世俗から隔絶されたような静かな空間、足音一つなく、しかし無数の命が拍動する空間に私は紛れ込んでいる。
ここは大阪市港区に存在する日本最大規模の水族館『海遊館』。
大阪遠征が決まった際にどうしても行きたいと考えていた、大阪を代表する観光地の一つだ。
あまり公言したことはないが……私は水族館が好きだ。この薄暗く静かで、穏やかな光に包まれた空間が好きだ。
元々訪れる予定は立てていたがこのような事態となってしまい、諦めざるを得ないものと思っていたが……。
昨日の晩に何気なく「大阪には大きな水族館があるらしい」と話題に出したところ、返ってきたのは「では行ってみましょうか」という即答の言葉であった。
結果、貸し切り同然となった海遊館で私は4時間ほど時間を潰している。
2時間で館内を見て回り、残りの2時間は……このクラゲが揺蕩うエリアで消費した。
「それにしてもクラゲ専用のエリアなんて、不思議な区画ですねぇ」
私と一緒に一通り見て回った後、もう一度見て回りたいと言い探索に出掛けていたクエロさん。
その腕には大きなジンベエザメのぬいぐるみが抱えられていた。しかも二匹。どうやらオスとメスの“つがい”らしい。
水槽を眺めていた私の側に座り、抱えていた一匹のぬいぐるみが自分の膝の上に置かれた。
持っていて欲しい……ということだろうか。受け取ったジンベエザメを抱きしめるように抱え、再びクラゲに視線を戻す。
「日本だと結構一般的なんですよ。
北海道の水族館にも大きなものがありましたけど……ここはまた違った雰囲気で素敵です」
……それは私がまだ小学校に上がりたてだった頃。
両親に連れられて訪れた水族館で、壁一面の水槽に揺蕩うクラゲの虜となり数時間近く眺め続けていたことがあった。
結局その時は呆れたパパに抱えられて名残惜しくもその場を後にしたが、私は何時間でもこの景色を見ていられる。
何故私はこれほどまでにクラゲという生物に惹かれるのだろう。
彼らの在り方が私とは真逆だからだろうか。堅く、燃える火を以て心の平穏を成す私と水に浮かび揺蕩い続ける軟体生物。
絶対に自分が届かないものであるからこそ目を奪われる。己の人生と掛け離れたものであるからこそ興味深い。
この数日間も、これまでの人生から振り返ってみれば十分非日常的なものではあったが……それも言ってみれば日常と地続きのものだ。
非日常からも離れた独自の空間。外の世界とは全く異なる時間を彼らは過ごしている。その時間を、緩やかな流れを共有していたい。
ここで寝泊まりしたいな。なんなら、水槽に入ってずっと暮らしていたい。そんな突拍子もない妄想すら浮かび上がってくる。
そんな私の妄想を断ち切るように流れ出したのは、オルゴール調にアレンジされた「蛍の光」。
『当館は まもなく 閉館のお時間でございます。またのお越しを 心より お待ち申し上げております』
穏やかな女性の声に我に返り、ふと外を見てみると時刻は既に夕刻を過ぎていた。
もしこのまま館内に残り続けていたら……「水族館に泊まる」という、幼い頃から抱いていた夢を達成できるのでは。
そんな考えが脳裏を過ぎるも、今自分が置かれている状況を鑑み込み上げた欲望を振り払う。
「名残惜しいですが、暗くならない内に帰りましょうか」
「そうですねぇ、私も見てみたいものは見て回れたので満足です。
ジンベエザメの餌やりが見られなかったのは残念ですが……」
ジンベエザメ、気に入ったのかな。
上半身を覆い隠してしまえそうなほど大きなぬいぐるみを抱えながら、帰り際に悠々と泳ぐジンベエザメを眺める。
貸切状態の水族館というのも新鮮ではあったが、無人というのも少し寂しい。
クラゲの群れを見て心を癒やすことは出来たものの、この海遊館という水族館の魅力を全て味わえたわけではない。
やはりショーやアクティビティを始めとする賑わいもなくては……。
「……大阪が元通りになったら、また遊びに来ましょう!」
口を衝いて出た言葉は、励ましのようでもあり「もう一度一緒に出掛けたい」という本心から出たものでもあった。
この異変がいつ終わるのかはわからない。それでもこの戦いが終わって、大阪という街に平穏が訪れたなら……その時にはまた、この二人で。