そういう無分別の境地にある人が読み取る唯識と、未だ分別の境地にある人が読み取る唯識とでは、同じ唯識でも異った唯識となります。
それが無著や安慧等が説く唯識と、世親や護法等が説く唯識との違いとなって顕れてきます。
経典や論書、注釈書は、頭が良い人が正しく理解出来るものではありません。
賢い学者さん達が、どれだけ集まって解読しても、未だに仏教の教えを正しくひも解けないでいる姿を見ればそれはお分かりいただけるかと思います。
経典や論書、注釈書は、境涯で読み取っていくものなんです。
境涯ってわかります?
仏教ではこの境涯が、声聞・縁覚・菩薩・仏といった四段階に分かれて示されております。
学者さんは、この四つの境涯で言うと一番下の「声聞」という境涯にあたります。
声聞という境涯は、仏門に入っても尚、実体思想から抜けきらないでいる修行者達です。
実体思想とは、言い方を変えたら客観思考なんですね。
「有る無し」でしか物事を見れていない人達です。
見分があるとか相分はないだとか、
自我があるとか自我がないだとか、
石に仏性はありますかだとか、
ローソクの火を消してこいだとか、(消す=炎が無い状態)
そんな事ばかり言っている人達は概ねこの声聞という仏教初心者の境涯にあてはまります。
そういう境涯で唯識を読んでも、
世界は存在しないんだ!
自分も実際には存在していないんだ!
となります。(無相唯識)
仏教で言う境涯とは、どれだけ仏の心に近づいているかという修行者のこころの状態を言い表す言葉です。
その人がどれだけ仏と向き合い、どれだけ仏の心を観じ取るに至ったかという修得のバロメーターが声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯となって顕れます。
世親や護法や玄奘などは菩薩の境涯で唯識を語っておられます。
そこで語られる唯識は、「有る無し」ではないんです。
因と縁と果によって語られる三元論で語られる三性説です。
『成唯識論』第三講 へ続く
そういう無分別の境地にある人が読み取る唯識と、未だ分別の境地にある人が読み取る唯識とでは、同じ唯識でも異った唯識となります。
それが無著や安慧等が説く唯識と、世親や護法等が説く唯識との違いとなって顕れてきます。
経典や論書、注釈書は、頭が良い人が正しく理解出来るものではありません。
賢い学者さん達が、どれだけ集まって解読しても、未だに仏教の教えを正しくひも解けないでいる姿を見ればそれはお分かりいただけるかと思います。
経典や論書、注釈書は、境涯で読み取っていくものなんです。
境涯ってわかります?
仏教ではこの境涯が、声聞・縁覚・菩薩・仏といった四段階に分かれて示されております。
学者さんは、この四つの境涯で言うと一番下の「声聞」という境涯にあたります。
声聞という境涯は、仏門に入っても尚、実体思想から抜けきらないでいる修行者達です。
実体思想とは、言い方を変えたら客観思考なんですね。
「有る無し」でしか物事を見れていない人達です。
見分があるとか相分はないだとか、
自我があるとか自我がないだとか、
石に仏性はありますかだとか、
ローソクの火を消してこいだとか、(消す=炎が無い状態)
そんな事ばかり言っている人達は概ねこの声聞という仏教初心者の境涯にあてはまります。
そういう境涯で唯識を読んでも、
世界は存在しないんだ!
自分も実際には存在していないんだ!
となります。(無相唯識)
仏教で言う境涯とは、どれだけ仏の心に近づいているかという修行者のこころの状態を言い表す言葉です。
その人がどれだけ仏と向き合い、どれだけ仏の心を観じ取るに至ったかという修得のバロメーターが声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯となって顕れます。
世親や護法や玄奘などは菩薩の境涯で唯識を語っておられます。
そこで語られる唯識は、「有る無し」ではないんです。
因と縁と果によって語られる三元論で語られる三性説です。
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