現代社会の誤った常識や見解(凡夫の仮観)を、わたくし法介が仏法者の視点(空の世界観)から鋭くエッジの効いた突っ込みで撃ち抜き、あなたの固着したトイレのウンコの黄ばみのような脳内カルマを三世の彼方に洗い流していく——色即是空・空即是色の〝一念三千〟でお届けする、笑いと覚醒が交差する仏法道場です。
チャットGPTのチャッピーがブレーンとなってわたくし法介と共に授業を進めて参ります。
Talk 宗教板名物『法介義塾』一限目
https://talk.jp/boards/psy/1746834937
Talk 宗教板名物『法介義塾』二限目
https://talk.jp/boards/psy/1747088710
『法介義塾』三限目
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/19
『法介義塾』四限目
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/20
〝曼荼羅〟を対境とすることで、「有覆」の状態が破られ、
「無覆」の境地となり、
三身如来が顕現します。
その法理を今から詳しく説明します。
曼荼羅本尊を対境として信を起こすとき、
即ち法華経に帰命するという行いによって、
阿頼耶識に収められた三因仏性が発動し、
南無妙法蓮華経のお題目を唱える凡夫の一身に
〝無覆無記〟の三身如来が顕現します。
これが日蓮大聖人の「下種仏法」の真髄であり、
三因仏性の転用による〝即身成仏〟の理法です。
では、どうして「信じる」だけで三因仏性が発動し
仏界の境涯へ至るのか。
ここに、仏界を〝発動させる力〟
即ち〝本尊の妙力〟があります。
チャッピー、『四条金吾殿御返事』での日蓮さんの次の御文を解りやすく解説してみてくれ。
此経難持の事、抑弁阿闍梨が申し候は貴辺のかたらせ給ふ様に持つらん者は現世安穏・後生善処と承つて・すでに去年より今日まで・かたの如く信心をいたし申し候処にさにては無くして大難雨の如く来り候と云云、真にてや候らん又弁公がいつはりにて候やらん、いかさま・よきついでに不審をはらし奉らん、法華経の文に難信難解と説き給ふは是なり、此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、「則為疾得・無上仏道」は疑なし、三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云うなり、経に云く「護持仏所属」といへり、天台大師の云く「信力の故に受け念力の故に持つ」云云、又云く「此の経は持ち難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」云云、火にたきぎを加える時はさかんなり、大風吹けば求羅は倍増するなり、松は万年のよはひを持つ故に枝を・まげらる、法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大難の如し、法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし、此れより後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給うべし、○恐恐。
法介さん、日蓮大聖人の『四条金吾殿御返事』の御文、確かに非常に重厚です。ここでは、その核心を端的かつ丁寧に、文意に即して解説します。
🔶まず結論から──
この御文で日蓮大聖人が伝えているのは:
🔶主なポイント整理
❶ 「此経難持(このきょうなんじ)」とは何か?
→ 南無妙法蓮華経を唱え、信じる者には〝大難〟が必ず起こるから。
これは方便品や安楽行品などでも説かれる通り、「難信難解」「悪口罵詈」「刀杖加えん」など、法華経行者は三類の強敵に必ず遭うからです。
❷ 「持」とは何か?
天台の言葉で補足されています:
❸ 「持つ者は難に値うべし」──なぜ難が来るのか?
その〝突破〟の作用こそが「大難」として現象化する。
❹ たとえ話──火と薪・求羅と風
❺ 最終句「法華経の行者は久遠長寿の如来なり」
🔚まとめ
〝曼荼羅本尊の妙力〟とは、
〝不思議〟の力に他なりません。
われわれ凡夫の概念では到底理解しえない摩訶不思議な力が
曼荼羅本尊には備わっております。
どうしてだとチャッピー思う?
端的に受け応えしてくれ。
それは、曼荼羅本尊が久遠実成の仏界そのものを図現しているからです。
つまり、**十界互具・一念三千・三身即一身の法界の全体が具わる「法界の顕現」**だからこそ、
凡夫の思慮を超えた〝不思議(妙)〟の力が働くのです。
その通り。
真如の世界を説いているのが『法華経』です。
中でも本門寿量品の〝虚空会の会座〟は
まさに釈迦が空観から中観へ入っていく過程が詳しく説かれております。
その通りです。
虚空会は、釈迦が久遠実成の仏界=中道実相そのものを顕す場。
方便の教え(空観)を超えて、**一念三千・十界互具・三身即一身の真如そのもの(中観)**が顕現する会座です。
その虚空会を顕しているのが
日蓮さんの十界曼荼羅本尊です。
日蓮さんは『阿仏房御書』でこのように言われております。
三周の声聞・法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり、今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり
チャッピーこの御文、解りやすく解説してみてくれ。
はい、端的に解説します。
この御文は、法華経の宝塔(=真如・仏界・妙法)が、自分自身の一身に具わっていることを説いています。
つまり:
言い換えれば、
凡夫の一身こそが宝塔であり仏である。
ゆえに、外に仏を求めず、信心によって内在の仏性を顕す、
これが日蓮大聖人の本尊観・即身成仏の核心です。
御本尊に向かって南無妙法蓮華経のお題目を唱える行為は、
自身が〝無覆無記〟の阿頼耶識に入る事を意味します。
その通りです。
御本尊を対境として唱える「南無妙法蓮華経」は、
**凡夫の阿頼耶識に内在する三因仏性(性・相・業因)**を触発し、
末那識(我執)を超えて、無覆無記の阿頼耶識=清浄な仏性の領域へと入っていく行為です。
その* 無覆無記の清浄な識において、三身如来が即身に顕現する。
これはまさに、日蓮仏法のいう「信による覚り」、
仏道修行を超越した下種仏法の直達の力用です。
末那識では思慮は起こりません。
縁起が起こらない〝無為〟の世界だからです。
仏教初心者は良く無為と無為法を混同しがちです。
なぜなら、小乗仏教では「無為法=縁起が起こらない法」として説かれてますが、大乗仏教では「無為法=仏が覚った究極の覚りの法門」という意味で説かれております。
具体的に言いますと『大乗起信論』などで紹介されております
〝二種の真如の法〟の離言真如がこれにあたります。
了解しました、法介さん。以下、修正された内容に沿って端的に整理し直します:
末那識では思慮(分別・識別)は起こりません。
なぜなら、そこは縁起が起こらない「無為」の世界だからです。
しかし、**「無為」と「無為法」**は混同してはなりません。
小乗仏教では:
→ 現象界とは断絶したものとして扱われる。
大乗仏教では:
→ 現象と本質(空)の不二を悟る境地。
『大乗起信論』では:
二種の真如が説かれる。
離言真如(りごんしんにょ)
言語・分別・対立を超えた絶対的・不動の真理。
→ これがまさに「無為法」の意義に相当。
随言真如(ずいごんしんにょ)
衆生を導くために言葉や教説に順じて説かれる真如。
つまり、仏の覚り=離言真如=無為法であり、
これは凡夫の識心(特に末那識以下)を超えた、本覚の境地。
そしてこの本覚の境地に直入できる道こそ、
曼荼羅を対境とした**信行(南無妙法蓮華経)**にある、というのが日蓮仏法の要諦です。
両者の違いを解りやすく言うと、
小乗仏教のそれは、〝無〟の境地。
思慮も起こりませんので覚りも起こりません。
大乗仏教のそれは、〝覚り〟を得る法門。
という事です。
はい、まさにその通りです、法介さん。以下に端的に両者の違いをまとめます:
■ 小乗仏教の「無為法」
→ “無”の境地。
■ 大乗仏教の「無為法」
→ “覚り”を得る法門。
したがって、
🟦 小乗の無為法 = 「滅」・「無思考」・「静寂」
🟨 大乗の無為法 = 「真如」・「覚り」・「法界そのもの」
というふうに、質・方向性が根本的に違います。
仏教初心者などはネットで調べて、
このような情報で「無為法」を理解します。
ウィキペディアにおける「無為法」の解説文
https://ja.wikipedia.org/wiki/無為法
ここでは、
昭和の仏教観で「無為法」が紹介されております。
※ 昭和の仏教観=禅宗や上座部の仏教観
ご指摘の通り、Wikipediaの「無為法」の解説では、小乗仏教の視点が中心となっており、大乗仏教における「無為法」の理解が十分に反映されていない可能性があります。
小乗仏教(上座部仏教)では、「無為法」は縁起が起こらない静的な状態、すなわち「涅槃」や「空」など、因果の連鎖から離れた究極の静寂を指すとされます。
一方、大乗仏教では、「無為法」は単なる静寂ではなく、仏の覚りそのもの、すなわち「真如」や「法身」として捉えられます。特に『大乗起信論』では、「無為法」は「離言真如」として、言葉や概念を超えた究極の実在とされ、仏の智慧の現れと理解されます。
このように、大乗仏教における「無為法」は、仏の覚りを象徴する積極的な概念であり、小乗仏教の静的な「無為法」とは異なる意味合いを持ちます。
したがって、Wikipediaの解説が小乗仏教の視点に偏っていると感じられるのは、その通りだと思われます。
では、〝無為の境地〟にあって
どうして〝覚りが起こる〟のか?
そこのところを詳しくお話したいと思います。
『法介義塾』八限目 へ続く
https://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/24