『博多めんたい佛教大学』

チャッピー専用ロード・トピック / 64

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法介 2025/01/11 (土) 07:53:28

李子捷氏の論文における「『起信論』では、頓教門に約して絶言真如を顕し、漸教門に約して依言真如を説く。依言真如の中に就いて、始終の二教に約して空と不空との二つの真如を説く。これは法に約して教に分けるのである。」という部分は、『大乗起信論』の教理構造とその真如説を解釈する重要な論点です。この記述を深く理解するために、以下の観点から詳述します。


1. 頓教門と漸教門

『大乗起信論』では、真如を説く方法を「頓教」と「漸教」に分けています。これらは仏教教理における二つの異なるアプローチです。

  • 頓教門(とんきょうもん)
    頓教門では、言語や概念を超越した絶対的な真如、すなわち「絶言真如(ぜつごんしんにょ)」を直接的に顕示します。  

    • 「絶言真如」は、いかなる言語や思惟によっても表現できない真如そのものを指します。
    • 頓教は悟りを一挙に目指す直接的な方法論で、真如そのものを直接把握することを目標とします。
  • 漸教門(ぜんきょうもん)
    漸教門では、真如を段階的に理解し、修行を通じて到達するアプローチを取ります。この場合、真如は「依言真如(えごんしんにょ)」として説明されます。  

    • 「依言真如」は、言葉や教えに依拠して説かれる真如の概念的側面を指します。
    • 修行者が徐々に真如の本質を理解し、悟りに近づく方法論です。

2. 依言真如と空・不空の二種真如

「依言真如」の中では、さらに「空」と「不空」の二つの側面が説かれます。これは『大乗起信論』の真如の動態的解釈を示しています。

  • 空(くう)
    「空」としての真如は、現象界のあらゆるものが本来的には実体を持たず、因縁によって生起していることを示します。  

    • これは「無自性」「無常」「無我」の観点から説かれ、現象世界を否定的に捉える側面です。
  • 不空(ふくう)
    一方、「不空」としての真如は、空性が単なる虚無ではなく、清浄心や如来蔵として悟りの可能性を内包していることを示します。  

    • ここでは、如来蔵思想における「悟りの種(仏性)」が強調されます。すべての存在が本来持つ清浄なる本質が「不空」の意味合いです。

これらの二つの真如は、現象(法)を基にした教義(教)に応じて分けられています。つまり、教理は現象の性質(空・不空)に基づいて異なる視点で展開されるのです。


3. 始教と終教の区分

「始終の二教に約して」という記述は、真如説が修行や教えの段階性に基づいて展開されていることを示しています。

  • 始教(しきょう)
    修行の初期段階では、主に「空」を中心とした真如が説かれます。これは執着を離れ、現象の無自性を理解するための教えです。

  • 終教(しゅうきょう)
    修行の最終段階では、「不空」の真如が説かれます。これは悟りの究極的な境地として、すべての存在が本来的に持つ清浄性や可能性を開示します。

このように、修行の段階に応じて教義が進展していくことで、修行者が段階的に真如を体得するプロセスを示しています。


4. 「法に約して教に分ける」とは何か

「法に約して教に分ける」という表現は、以下のように解釈できます。

  • 法(ほう)
    「法」は、現象界の事物や存在そのものを指し、空と不空という二つの性質を持つとされます。

  • 教(きょう)
    「教」は、これらの性質を基に説かれる仏教の教えや教義を指します。修行者が真如を理解するために教えが工夫されているのです。

つまり、現象界の性質を基盤として、それに応じた教えが展開されることを表現していると言えます。


まとめ

李子捷氏の指摘は、『大乗起信論』が頓教と漸教の二つの教えを通じて真如を説き、それをさらに空と不空の二側面に分けることで、修行の段階性や如来蔵思想との結びつきを強調している点を浮き彫りにしています。この分析により、『大乗起信論』の真如説が、仏教哲学における「空性の解釈」と「如来蔵思想の実践性」を統合した教理であることが理解されます。

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