Chi-Ha

Last-modified: 2024-02-10 (土) 06:50:14

日本 RankI 中戦車 Chi-Ha / 九七式中戦車 チハ

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履帯モデル更新前

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概要

チハたん∩(・ω・)∩ばんじゃーい
ver1.65で実装された日本陸軍、中戦車ツリーの二番目である。
言わずと知れた日本陸軍を代表する戦車。車体を流用した派生型も含め太平洋戦争全般を通じて最も使用された。
この手すりは手すりではなく手すり型のアンテナである。

車両情報(v1.89.1.73)

必要経費

必要研究値(RP)2900
車両購入費(SL)700
乗員訓練費(SL)200
エキスパート化(SL)1000
エース化(GE)20
エース化無料(RP)96000
バックアップ(GE)10
護符(GE)95

BR・報酬・修理

項目【AB/RB/SB】
(初期⇒全改修完了後)
バトルレーティング1.3 / 1.3 / 1.3
RP倍率1.0
SL倍率0.2 / 0.3 / 0.3
最大修理費(SL)90⇒116 / 140⇒181 / 140⇒181

車両性能

項目数値
【AB/RB&SB】(初期⇒全改修完了後)
砲塔旋回速度(°/s)17.4⇒24.1 / 10.9⇒12.8
俯角/仰角(°)-15/20
リロード速度(秒)
(初期⇒スキルMAX+エース化)
4.29⇒3.3
車体装甲厚
(前/側/後)(mm)
25 / 25 / 20
砲塔装甲厚
(前/側/後)(mm)
25 / 25 / 25
重量(t)15.0
エンジン出力(hp)263⇒324 / 150⇒170
2,000rpm
最高速度(km/h)44 / 40
実測前進~後退速度(km/h)44 ~ -6 / 33 ~ -5
最大登坂能力(°)26⇒33 / 28⇒33
視界(%)74
乗員数(人)4

武装

名称搭載弾薬数
主砲57mm Type 97 cannon120
機銃7.7mm Type97 machine gun×23000

弾薬*1

名称弾種弾頭
重量
(kg)
爆薬量
(g)
初速
(m/s)
貫徹力(mm)購入
費用
(SL)
10m100m500m1000m1500m2000m
Type 90 APHEAPHE2.58103349212118151210
Type 3 HEATHEAT1.823738055

車両改良

解説ページを開く

Tier名称必要RP購入費(SL)
I履帯******
修理キット
砲塔駆動機構
IIサスペンション******
ブレーキシステム
手動消火器
砲火調整
IIIフィルター******
救急セット
昇降機構
IV変速機******
エンジン
砲撃支援

カモフラージュ

クリックで表示
既定
[添付]
条件-
説明標準迷彩
茶色迷彩
[添付]
条件プレイヤー撃破21 / 200GE
説明茶色迷彩
艦艇灰色迷彩
[添付]
条件200GE
説明艦艇灰色迷彩
青柳色迷彩
[添付]
条件200GE
説明青柳色迷彩
黄褐色縞模様迷彩
[添付]
条件200GE
説明黄褐色縞模様迷彩
冬季迷彩
[添付]
条件プレイヤー撃破30
説明冬季迷彩
Early winter camouflage
[添付]
条件200GE
説明Early winter camouflage

研究ツリー

前車両I-Go Ko
次車両Ho-I
 
 

解説

特徴

前車の八九式中戦車の後継らしく、順当な性能強化がなされているがそれでも弱い。しかし、八九式から乗り継いできたのなら本車を活躍させることは十分に可能であろう。この後の中戦車ツリーや砲戦車ツリーは本車の改造、改良であるものが多いので、ここで使い勝手をしっかり学んでおこう。
--加筆求む--

 

【火力】
八九式の主砲と同一である。何一つ性能が進歩しないままBRが一段階上がってしまったが、八九式から引き続き使用するHEAT弾はまだ大半の同格戦車を正面から貫通できるので火力不足に悩むことは少ない。更に機動性と装甲が向上しているので敵の側面を取りやすくなっている。八九式で本砲の扱いに慣れていれば本車でも十分に活かすことができるだろう。
副武装は6.5mm機銃×1から7.7mm機銃×2へと火力が増強され、貫通力も最大10mmとなり自走砲や軽車両相手には通用するようになった。また、狭い範囲でしか使用できなかった車体機銃と違い砲塔上に装備された機銃は同軸機銃替わりに全周で使用できる。

 

【装甲】
砲塔、車体共に正面最大装甲厚は曲面のある25mmとそこまで薄いわけではないが、戦車砲を跳弾などで防げるわけではないので過信は禁物。戦車砲や機関砲で撃たれるとよほどの幸運がない限り貫通するので被弾は避けたほうが賢明だろう。しかしブローニング重機関銃は10mの距離から撃たれない限り確実に防げることを覚えておこう。車体背面は20mmなので注意。

 

【機動性】
最高速度が上がり、陣地転換には十分な機動力を持つ。しかし、アンダーパワー気味であり悪路ではあまり速度が出ずゆっくり走る形となる。敵前でゆっくり悪路を走る本車は敵にとっては格好の的なので周辺警戒はしっかり行おう。そして最大の欠点としては信地旋回であり、車体旋回時はかなり大回りな円を描く為接近戦は得意ではない。坂道ではこれが顕著で、角度によっては旋回できなくなる。これらの欠点は開発と搭乗員スキルの育成によりいくらか改善する。他のチハ戦車改造&改良ツリーも同じような挙動なので、慣れておくと良いだろう。

 

【総論】
八九式を進化させ、ささやかな装甲防御力とそこそこの機動性を持たせたような戦車。同BR帯の他国戦車と比べて多少見劣りしているが、八九式と比べれば幾分使いやすくなっているので、八九式で日本戦車の基本運用を学べば本車は活躍できるであろう。

史実

 九七式中戦車チハは、八九式中戦車の後継中戦車として、1930年代後半に開発・採用された。

クリックで詳細表示

八九式中戦車は満州事変以来、満州と中国で活躍していたが、実戦で使ってみると様々な問題が見つかった。当面は改修作業で対応していたが歩兵の自動車化、高速な九二式重装甲車や九五式軽戦車が投入されるようになると低速な八九式中戦車は歩兵部隊に追随することが困難になり、より高速な新型中戦車の要求が高まった。そこで1935年に試製中戦車の研究方針が決定され開発が始まった。
 開発にあたり新型中戦車は、大出力・重装甲(チハ車)とするかそれとも小型軽量で多数整備(チニ車)するか議論されたが、双方のコンセプトに沿った車輌を試作し比較試験することになった。チハ車は三菱重工業が、チニ車は大阪砲兵工廠に発注された。試験結果はどちらも概ね良好とされたが、1937年7月に日華事変が勃発したことにより陸軍の予算が増大したので、高価だが余力のある三菱製のチハが制式採用された。
 性能としては、九五式戦車の拡大改良版ともいえる性能で、曲面を多用した最大25mmの装甲と口径57mmの短砲身砲、最大速度40㎞/hの機動力をもつ。八九式の後継としては十分なものであった。対戦車能力は貧弱であったが、これは短砲身IV号戦車のように歩兵支援として強固な機銃陣地、軽戦車の脅威になりうる対戦車砲陣地、砲兵陣地を吹き飛ばすのを主目的としている為である。一応九七式五七粍戦車砲の肩を持つと、主砲選定時の装甲目標への射撃試験や訓練項目で機動目標への射撃訓練もしている辺り一応最低限の対戦車任務は考えられていたのだが、意図した本来の用途とは異なるのである。ノモンハン事件では日ソ両方による高初速の小口径砲の対戦車戦での活躍を戦訓に、対戦車を考慮した長砲身47mm砲搭載チハや多数の改造・改良車両がのちに開発された。
 実戦においては、初陣のノモンハンで戦車第3連隊にチハが4輌配備されハルハ川周辺の戦闘に参加し、砲兵陣地に突入し撃破する戦果を挙げた。後日ソ連軍陣地を叩く際にソ連戦車と対決、ソ連軍のピアノ線によるトラップや対戦車戦闘力の低さが露呈した。これらの問題を高い技量で解決し、第二次世界大戦に突入すると、持ち前の対歩兵能力と乗員の高い技量を武器とし、マレー作戦ではイギリス軍が「小マジノ線」と謳い日本軍を3ヵ月足止めすると豪語していたジットラ・ラインを僅か一日で突破した。チハおよび他の機甲部隊は大戦初期の日本の快進撃を支える戦果を挙げた。
 しかし緒戦ではスチュアート等の軽戦車相手に奮闘していたものの、米軍が攻勢に転じ1943年以降にM4戦車はじめとしたさまざまな装甲車両を投入し始めると性能の低さは致命的となる。そのため後継車や改良車の開発、配備が強く求められたが、その余裕は大日本帝国にはなかった。
 それでも本車は「複数車両の砲撃による同箇所連続着弾による撃破」「待ち伏せ至近距離からの同箇所連続着弾による撃破」「梱包爆弾や九九式破甲爆雷による肉薄攻撃」など、絶望的な性能不足を搭乗員の神がかりな技量と血のにじむ努力によって覆し、格上戦車に対しても出血を強いる驚異的な奮戦を見せ、終戦までを戦い抜いた。
(なお”布団爆弾”もとい梱包爆薬による自爆攻撃が行われていたとする主張もあるものの、少なくとも日本軍が用いた梱包爆薬や九九式破甲爆雷には投擲を目的とした安全ピンや吸着用の磁石、安全圏内への退避時間を稼ぐための遅延信管が付いている事から、イギリスの吸着式対戦車手榴弾やドイツの吸着地雷、ソビエトのRPG-40に近い運用をされていたようだ。)

 また戦後においても本車は活躍しており、ブルドーザー、クレーン、警備車両など様々な改造を施され、戦後日本の復興を支えた。
 決して優れた戦車とは言えない本車だが、その小柄で愛らしい見た目に反した勇猛な奮戦ぶりから現在でも高い人気を持ち、多くの愛好者から「チハたん」と呼ばれ、親しまれている。

小ネタ

◆日本陸軍の仮想敵は第一にソ連であり、第二が中華民国である。兵器開発や訓練も対ソ連を重点的に行われ、アメリカと開戦しても1943年末まではあまり変わらなかった。


◆チハは弱いのか?

よくチハはシャーマンやパンター、T-34などと比較され、弱い弱いと言われる事が多い。
弁護するならば設計年が大幅に違う。チハは1936年設計(チハ改は1941年に設計)であり、M3スチュアートとシャーマンは1941年末に設計、T-34は1940年設計、パンターは1942年設計なのである。
当時の戦車は戦訓と実戦により恐竜的進化を遂げており、1,2年違うだけでも運用思想の変遷や戦訓、工業の発展により大きく性能が変わる程のものであった。
従ってチハとこれらの戦車と比較すると比べる事は正確ではない。
だがチハと同年代に採用された戦車の中で米国ではM2中戦車、英国ではA13巡航戦車、ドイツ(チェコ)では38(t)などは榴弾威力では劣るもののチハと比較して強力な戦車砲や高い機動力を持ち装甲もチハと遜色ない。またソ連では30年代の傑作と名高いBT-7を開発しておりこれはチハより装甲が薄いものの桁違いの火力や機動力を持つ。フランスに至っては性能で全面的にチハに勝るソミュアs35、イギリスは機動力は低いものの重装甲で高い貫通力を持つマチルダ2の配備も進んでいた。一方イタリアやドイツといった国々と比較すればマシという程度。そして日本の貧弱な工業力の為に新型戦車の開発はおざなりであり、結局は登場時から微妙な性能でしかも戦車の恐竜的進化に早々に付いていけず、旧式化した戦車を延々と使い続けることを強要された。


◆チハの意外な機能

ちなみにチハには車長用パノラマ眼鏡(潜望鏡のような見た目をしたキューポラに付属している突起物)や気象環境計(砲塔から生えているスリットヒーターのような突起物)など間接砲撃を行う事のできる器具が付いていた。
この事からもチハが四号戦車のように、対戦車戦闘ではなく直接射撃のみならず間接砲撃による火力支援や歩兵の直接支援を主眼において設計されていた事がうかがえる。
また、ペリスコープ代わりに視察にも使われていたようだ。
チハ新砲塔の場合は車内容積の関係上からかキューポラの前に移動してある。

※なお、この車長用パノラマ眼鏡に関しては「車内スクリーンに映像を投影する機能を期待されて開発されたプリズム式の外部視察装置の一つであり、間接砲撃能力を付与するようなものではなかった」など様々な推測が飛び交っているがいずれも推測の域を出ず、詳細は不明のままとなっている。
実際には搭乗員からは信頼性を疑われてほとんど使用されることは無かった。当時の日本の工業力と装置の故障の多さが類推できるエピソードではある。
このwikiの説も個人の推測なので、詳しい空中勤務者・戦車兵諸兄らに加筆を求む。


◆装甲について

チハの装甲板は第二種防弾鋼が用いられているが、これは諸外国で言う表面硬化装甲に相当する。これは小口径の砲弾や小銃弾を破砕させる事を目的としており、実際の装甲厚よりも高める事ができたが、同時に装甲板の性質上大口径砲等の運動エネルギーの高い砲からの砲撃には通常の鋼板よりも割れやすいという欠点も抱えていた。

またチハの最大装甲厚である25㎜という値は、敵歩兵が使う軽便な37㎜砲対戦車砲の攻撃を中距離または近距離で防ぐことを考慮したモノだった。
(この25㎜の表面硬化装甲は初速700m/s程度の37㎜級対戦車砲の射撃を500mで耐える事を考慮したものだったともいわれる。)
その後実際に、国産の37㎜速射砲とソ連や中華民国から鹵獲した37~45㎜級"対戦車砲"よるチハの耐久試験を行った。
試験の結果、国産の37㎜速射砲でチハの車体側面下部(25㎜の垂直装甲板とされる)を1500mの距離で射撃したところ、凹みが生じるだけで貫通しなかった。
次に、中華民国の使用するラインメタル社製37㎜対戦車砲で車体側面下部を射撃した場合、300mの距離で貫通し
ソ連の45㎜対戦車砲をチハの砲塔部に打ち込んだ場合には1500mの距離で貫通した。
(37㎜砲による耐久試験は側面に対するものだったが正面装甲の場合は不明。)
また他の対戦車砲としてボフォース37/81mm砲が挙げられるが、この砲は九四式速射砲と初速・弾頭重量・貫徹力が非常に似通っており、似通った数値になったであろう事が予想される。

南方戦線にて対峙したアメリカ側も鹵獲したチハに対し自軍が保有する火器のうち、37mm対戦車砲(M3 37mm対戦車と思われる。M3/M5スチュアートの戦車砲はこのM3対戦車砲を転用)を用いて射撃試験を行なっており、チハの正面装甲に対し実戦では320m以内で射撃することが有効とレポートを残している。これは320m以上でも通常角*2からでは貫通できるが、命中角によっては弾かれてしまったからである。実際に初期の南方戦線でも
M3 37mm対戦車砲を転用したM6 37mm戦車砲を持つM3スチュアート軽戦車とビルマで交戦した際もチハの損失は1輌だけで、その1輌も砲弾が貫通後操向装置まで侵入するが、自走可能で乗員死傷無しという程度であり実際のところビルマでの作戦期間中、チハの貫通報告はこれだけとかなり少ない。

・・・なお、当の日本軍では37㎜級対戦車砲に対する防弾性能は不十分だと認識され、日中戦争勃発から間もない時期にはチハの改良案として現場側から現状の25㎜から50㎜へ装甲強化が提案されている。結果として後継車輌のチヘに反映され、チハにも一部の生産車輌で増加装甲型が製造された。また、現場でも増加装甲をボルト止めで張り付けた例もあったようだ。これは従来の日本製戦車に搭載された変速器は重量が増せば増すほど、操縦性が悪化するものだったからであり、これを解決するには重量を軽くするか、油圧の補助装置を搭載する新型の変速器を開発する必要があったが、いずれもうまくいかなかったようである。

なお、小銃弾で貫通される程装甲が薄いなどの俗説がある。
が、実際に鹵獲した車両を使って米軍はテストを行っており、
その中でM2機銃を使用した場合、機銃ボールマウントや車体側面下部なら至近距離(約45.7m)で貫通可能、約91.4ではどの部分も貫通不可能とレポートしている。
なので上記のレポートを基に、それより遥かにエネルギーの劣る小銃弾は至近距離でも貫通はできない、と言われている。
同時期に運用された装甲車両、特に7.92mm小銃の徹甲弾で抜かれる事で有名であった九二式重装甲車の事例との混同が原因であると推測される。

(ちなみにM2ブローニングに使用される.50BMG(12.7mm*99弾)は元々対戦車用に使用する事も考えて開発されており、AP弾を使用した場合には20mmの鋼板を貫徹する事ができるようになっていた。
Ⅳ号戦車初期型の側面装甲が15mmである事を考慮すると、その威力がわかるだろう。)

また、150mm級榴弾砲の至近弾で車体がバラバラになった、という説に関しては異論(※個人のブログにリンク)も存在する。
簡単にまとめると、「日本陸軍の対爆撃効力試験の記録「機甲将校必携」によると、15cm榴弾砲の砲弾より炸薬量の多い50kg爆弾の至近弾でも1~2時間戦線離脱せざるを得ない程度」「実際に確認できる限り榴弾砲で撃破された日本軍の戦車はチハではなくハ号」「チハが榴弾で撃破された事例が現状確認できない」ということであり、少なくとも至近弾でバラバラになる可能性は低い、という事であり、眉唾ものの噂である可能性が高い。
しかし、チハに限った話ではなく、大戦初期の車両の共通の弱点だが、装甲がリベット接合されているため、強い衝撃を受けるとリベットが剥がれ、内部にボルトが飛び装甲が脱落すると言うことは報告されていた。


◆エンジン

チハの三菱SA一二二〇〇VD空冷V型12気筒ヂーゼルは日本軍が開発したV型12気筒ディーゼルエンジンなのだが、空冷故にエンジン自体は1.2tで変速装置や操行装置込みで2.5tもある割には馬力は定格150hp、最大でも170hpというかなり貧弱な仕上がりとなっている。これは当時の空冷ディーゼルエンジンの特性でもあった、重く大きい割に出力が小さいということを差し引いても劣悪であった。というのも、本来の仕様では最大出力200hpを発揮できるはずが170hpしか出せなかったからである。(最初から170hp級として作っていれば軽量化できたともいえる。)

但しチハ自体は軽いので最高速度は38km/h~40km/h、加速も同時期の中戦車としてやトラックと比較して見ると遅いわけではないし、アンダーパワーながらもなんとか要求性能は満たしていた

このエンジンは各社製品ごとに部品も共通化が図られておらず、三菱や日立製作所を筆頭に各メーカーが独自に部品や細部の仕様を変えた為、整備の際は三菱製のエンジンは三菱系列の会社で生産されてる部品を、日立製作所製エンジンならば日立製作所系列の会社の部品を使用しなければならず、あまり共通が利かなかった。機械的信頼性もあまり高いとは言えず、異常排煙や騒音を起こしたり燃料噴射装置を筆頭によくトラブルが起きた。原乙未生中将達により整備方法の改善などでこれらトラブルは減ったのだが、依然として機械的信頼性は低くマレー侵攻や大陸打通作戦など長距離進撃の達成の裏側には乗員や整備士達の熟練の技術があっての達成だったのだ。


◆輸送重量制限

最初に明記しておくが、「輸送重量の限界は15t」という制限はない。

チハが全備重量15tであるがもともと全備重量13.5tに収める予定だったが、量産に向けて修正を加えていった結果1.5t増加してしまった為であり、重量制限とは関係ない。

チハに限らず、日本陸軍戦車開発には必ず重量制限が付きまとってきたが、この制限の主な理由は架橋器材や渡河器材、上陸舟艇などの性能や特に数量不足を考慮したものである。

架橋器材は軍が河川を渡る際に架ける橋の材料のこと。渡河器材は渡し船のことである。

戦車の重量が増せば増すほど、それらの器材も平行して大掛かりなものとなり組み立ての手間が増える上に生産量も減る。さらに弾薬や食料等の重要物資が積載・荷下ろしにくくなるため、戦場の規模に対し輸送・後方支援部隊(+量産能力)が貧弱な日本軍にとっては大きな負担であった。

この問題の原因は日本の能力と想定をはるかに超えた範囲まで戦場を広げてしまった結果であって、そもそも日本陸軍の想定戦場は北満州である(兵器開発体系も対ソ連を重視していた)。

そもそも、上述の架橋機材や渡架機材の問題も河川の多い大陸南部や南方の島嶼戦において表面化したものである。

問題解決のためには米国や中国と早期講和して戦場を縮小させるか、兵器を軽量なものにするしかなかったが、日本は前者を取ろうとするも失敗し続け、後者を取らざるを得なくなり戦線を広げ続け最終的に破綻を迎えることとなる。

よく槍玉に挙げられるものとして、狭軌による鉄道輸送の制限や輸送船に搭載されたクレーンの積み込み能力の限界があるがこれらの言説には誇張が含まれており、どちらかと言えば大きな問題ではない。

例えば、陸軍が利用していた輸送船としては平時/戦時標準船があるが、これらの多くは装甲挺や戦車を搭載したまま上陸舟艇を海上に下ろすことも考慮して、25t~30tクレーンを標準装備していた(ただし、末期になると額縁通りの能力が発揮できないクレーンも多く出回るようになる)。
釜山や大連等の整備された軍港に備えられているクレーンを用いれば、それらよりも重い要塞砲も下ろせた。

また、狭軌による鉄道輸送の限界は約3m程度*3であり、戦後に開発された61式戦車の車幅もこの戦前からの規格に対応したものである。


◆九七式車載重機関銃

九七式車載重機関銃はZB26を原型とする車載機銃で、九一式車載軽機関銃の後継である。
日本軍はそれまでに十一年式軽機関銃を改修した九一式車載軽機関銃を使用していたが、車載機銃としては威力不足、車内での取り回しの悪さ、作動不良の問題により後継の車載機銃を要望していた。作動不良に関しては新実包の採用により改善した十一年式と九一式だったが、車載機銃としての威力不足は解決できず、日本軍はZB26を原型とする甲号、八九式固定機関銃を改造した乙号と試作した。比較結果では甲号が望ましいと判定が下り、九七式車載重機関銃の試作が完成する。九二式重機関銃と同じ九二式実包を使用した結果、作動不良が多発した。原因は九二式実包は半起縁式だったため、実包を無縁式にした新実包を使用すると快調に作動したという。試作の結果陸軍は機銃を九七式車載重機関銃、新実包を九七式実包として採用した。
九七式車載重機関銃の構造はZB26を原型としたコピーなので類似箇所が多い。違う点としては銃身交換用のレバーが逆、ガスレギュレーターが銃身先端からガスチューブ先端に変更、槓桿の位置が逆、十一年式軽機関銃と似た手掛けを装着しているという点が主である。
車載時は3.1kgの防弾の銃身被筒を被せる。銃床も長さを調節したり、折りたたむこともできた。
照準器は1.5倍率で、銃手の目を守るためにゴム製の緩衝環が取り付けられている。本来ならば車外に持ち出す場合は照準器を外してアイアンサイトを使って撃つ。
弾倉は20発で、銃の真上から装弾した。この方式では弾倉交換がしにくいという批判があったようだが、結局この配置のままである。弾倉は20発しかないが、弾倉が小さいおかげで九一式と比べ車内でも取り回ししやすいのと、元々日本軍では車載機銃は自衛用であり、機関銃運用方法としても制圧射撃の時すらも数発撃つ点射を基本としているので乗員側からは特に問題視されていない。またマガジン式なので再装填もベルト式よりかは速い。車内から撃つ場合は薬莢が車内に散らばらないように打殻受けと呼ばれる袋を排莢口に取り付けた。
乗員の評価としては総合的には上々で、特に作動性と威力面では歓迎されている。中には九一式車載軽機関銃を全て九七式車載重機関銃と交換しないと戦車としての効果を発揮できないという報告もあった。
実戦となったノモンハンや太平洋戦争、中国大陸方面でもその威力を発揮した。


◆ベンチレーター

実は九七式中戦車に限らず、日本陸軍の戦車にベンチレーターが装備されていた記録が無い。現在分かっていることは三式中戦車では生産車輌にベンチレーターを装備する予定だったようだ。
ベンチレーターが無い理由としては、陸軍士官58期の原田 健一少尉と辻本 博少尉の証言によると旧軍戦車のディーゼル搭載車輌は車内に吸気口があったので換気が良かった、と証言している。  一方でそれは砲塔部と操縦席の話のようで、無線手兼機銃手の席は換気はあまり良くなく、占守島の戦いで九五式軽戦車で戦った小田英孝氏によると機銃を撃ちまくると目が痛く、喉がヒリヒリしたという。 戦訓でも数時間続けて戦闘行動をすると乗員に著しく健康被害が出た。その為、乗員は戦闘を継続可能なように定期的にハッチを開けて換気をしたり、車体機銃側を大団扇で扇いで換気をしたり、拳銃用の銃眼で呼吸をしたり、定期的に車外に出て新鮮な空気を吸うという現場の対策もあった。
結局ベンチレーターの設置が遅れたのは、アメリカなどのように車体機銃を撃ちまくることはなく*4、エンジンの吸気による換気効果により車長や操縦士といった比較的重要度の高い乗員はその恩恵を受けることが出来ていたからであり、それを得られなかったのは重要性の低い機関銃手だったからであろうか。


◆後継車輌

初陣のノモンハン事件以降、チハは終戦まで日本陸軍の主力戦車として戦うはめになった。泥縄的に対戦車能力を向上させたチハ改があるものの、その他の大きな改造は施されていない。
後継機が遅れた原因としてはいくつか理由があり、単純に予算不足だけが問題ではない。まず後継車輌の計画が数度に渡って変更されたことである。

実のところチハは日本陸軍にとっては、無駄に重く、作りづらく、それまでの九五式軽戦車と比べても機械的信頼性が低い。スペック上の性能こそ要求値になんとか達していたものの、戦線や組織が拡大しつつある現状に合っているとはいえず、整備性や量産性、兵站への負担など戦闘面以外の問題点が多かった

暫定新戦車という認識も強かったため、チハの後継開発はチハの量産開始直後の1938年から始まっている。

チハの後継第一号は、チホ(九八式中戦車)である。設計思想としては、防御性能はチハと同じであるとしながらも、重量を抑え操縦性を向上させ、生産性改善のために各所を洗練したものであり、対戦車能力の向上も盛り込まれた。一言で言えばリメイク版のチハ。しかしチホは試作されたものの採用されることはなかった。
採用されなかった理由はノモンハン事件の戦訓により戦車は火力強化だけでなく、装甲及び機動性の向上が求められたためだともされる。

後継第二号になったのは、後の一式中戦車 チへである。チへは前のチホの装甲強化版といったものであり、重量増による操作性の低下を防ぎ、機動性及び生産性向上のためエンジンや変速器を新式に改めることになっており、一般的に知られる一式中戦車とは一部異なっていた。しかし、新式の変速機の開発は難航し、チトこと四式中戦車の試作まで実現しなかった。また新型エンジン(統制発動機)も試作はうまくいったが、予算だけでなく時間も技術的ノウハウも不足していたため、量産時の性能の合格率が低くく量産が思うように進められなかった。

最終的には新型変速機の採用は諦め、どうにかものになった新型エンジンを搭載した一般的に知られるタイプが生産されることになったが、時は太平洋戦争の終盤であり、本土決戦の作戦が練られ始めた時期でもあった。そのため新型戦車を外地に送る余裕もなかった。さらに航空機重点主義により戦車の開発生産はかなり絶望的な状況だった。

 

外部リンク

 

WarThunder公式英語Wiki

 

公式Devログ

Newsflash from IgroMir 2016! New ships and first look at Japanese Ground Forces!

 

インターネット百科事典ウィキペディア

 

コメント

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旧式コメント欄(ZawaZawaコメント欄が使用できない時などに)
  • イメージ貼ったのに反映されない・・・どういうこっちゃ -- 2016-12-20 (火) 20:24:29
  • 普通にまぁまぁだな。ここだと他国ともどっこいどっこい -- 2016-12-20 (火) 21:52:43

*1 爆薬量はTNT換算
*2 戦車正面の正対角度のことと思われる
*3 因みに線路幅は1067mm。つまり輸送の限界は線路幅の3倍馬鹿でかい
*4 もっともアメリカの場合M4中戦車やM3スチュアートなど主要な戦車の車体機銃には照準器が無い為、ペリスコープで着弾点と曳光弾を見ながら照準する必要性があったのもあるが